日曜朝の礼拝「溢れ出る恵み」

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溢れ出る恵み

日付
説教
吉田謙 牧師
6 そこには、ユダヤ人が清めに用いる石の水がめが六つ置いてあった。いずれも二ないし三メトレテス入りのものである。7 イエスが、「水がめに水をいっぱい入れなさい」と言われると、召し使いたちは、かめの縁まで水を満たした。8 イエスは、「さあ、それをくんで宴会の世話役のところへ持って行きなさい」と言われた。召し使いたちは運んで行った。9 世話役はぶどう酒に変わった水の味見をした。
ヨハネによる福音書 2章1節-20節

 イエス様は、ガリラヤのカナという町で行われた結婚式に出席なさいました。その宴会で、どういうわけか用意していたぶどう酒が底をつきかけた、と言うのです。するとイエス様は、その場所にあった石の水がめに、召使いたちに頼んで沢山の水を入れさせ、その水をぶどう酒に変えられた、と言うのです。これが今日の物語です。

 6節によると、この水がめは、「ユダヤ人が清めに用いる石の水がめ」であったことが分かります。この水がめの元々の用途が、このようにわざわざ語られているというのは、この福音書を書いたヨハネに、明確な意図があったからでしょう。ヨハネによる福音書は、そこに象徴的な意味を見出しているのです。ユダヤ人たちの間では、身を清めるための水が用いられていました。それは体を清潔にするという衛生的なことではなくて、神の民として、神様の御前に出るためには、この水で罪の汚(けが)れを落とし、清くならねばならない、ということです。罪の汚(けが)れを身に帯びている人間は、そのままでは神様の御前に出ることは出来ません。この水がめは、その清めの水を入れるためのものでした。そこに満たされた水を、イエス様はぶどう酒に変えられたのです。

 この物語で鍵となる言葉は「ぶどう酒」でありましょう。「ぶどう酒」と言った時に、皆さんなら、いったい何を思い浮かべるでしょうか。教会の中で「ぶどう酒」と聞くと、おそらくほとんどの人が聖餐式を思い浮かべるのではないかと思います。イエス・キリストは、このユダヤ教の清めの水をぶどう酒に変えられました。本当の清めは、人間を外側からごしごし洗っても駄目なのです。清めの水がいくら沢山あっても、私たちにこびり付いた罪は、決して洗い流すことが出来ません。ただぶどう酒が示す、イエス・キリストの十字架の血潮によらなければ、私たちの罪は清められないのです。ユダヤ教のきよめの水がぶどう酒に変えられたという奇跡は、このことを象徴的に指し示していたのでした。

 同じヨハネの教会で読まれたヨハネの手紙には、こういう御言葉があります。「わたしたちは御子イエスの血によってあらゆる罪から清められます。」ヨハネの手紙一1章7節の御言葉です。

 この「清める」という言葉は、今日の箇所にある「清め」という言葉とほとんど同じ言葉です。つまり、ヨハネによる福音書が読まれた教会では、「私たちの罪は、キリストの血によって清められるのだ!」と語られていたのです。ですから、清めの水がぶどう酒に変えられたという物語は、このヨハネの教会では、極自然に、キリストの血による清めを思い起こす言葉として読まれたのだと思います。そして、ヨハネ自身も、そのように読まれることを期待しながら、この物語を書いたのです。

 このような象徴的な意味を見つめる時に、あの母との不可解な会話の意味も次第に見えてくるのではないかと思います。イエス様が母に「婦人よ」と語りかけたことも、また「あなたは、わたしと、なんの係わりがありますか」と言われたのも、この後(あと)行われる、水をぶどう酒に変えるという奇跡が、身内である母の願いに応えてなされたものではない、ということを指し示しています。この奇跡は、罪の汚(けが)れのために神様の御前に出ることが出来ない、しかも水で洗ったぐらいでは清くなることが出来ず、神様との良い交わりを失っている私たち人間を、主が深く憐れんで下さったことによって実現したものでした。独り子である神が人間となってこの世を歩み、私たちの罪と汚(けが)れを全部その身に背負って、十字架の上で死んで下さいました。このことによって私たちの罪は赦され、私たちは赦された者として、安心して神様の御前に出ることが出来るようになったのです。これは、母の願いに応えてなされたことではなくて、ただただ主の深い憐れみの御心によることでした。

 また「わたしの時はまだ来ていません」という御言葉も、こういう象徴的な意味を見つめる時に、納得できるのではないかと思います。イエス様は、「わたしの時はまだ来ていません」と言われた直後に、水をぶどう酒に変えられました。これは、「わたしの時はまだ来ていません!」と言われながら、その後(あと)すぐに奇跡を行われたではないか?!」と突っ込みたくなるような箇所ですね。しかし、この水をぶどう酒に変えるという奇跡は、ご自分の十字架の死と復活によって実現する本当の救いを先取りするものでした。ですから、この「わたしの時はまだ来ていません」というお言葉は、イエス様による本当の救いは、十字架の死と復活においてこそ実現するのであって、まだその時は来ていない、ということを指し示していたのです。。

 11節には、「イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行(おこな)って、その栄光を現された。」と言われています。この奇跡は、イエス様の救い主としての栄光、救い主としての素晴らしさを現す最初のしるしであった、と言うのです。確かに、ぶどう酒が底をつきかけ、婚宴の喜びに暗い影が落ち始めた時に、水をぶどう酒に変えて、喜びを回復して下さったのですから、このことを通してイエス様は救い主としての素晴らしさを遺憾なく発揮なさったと思います。けれども、このヨハネによる福音書において、イエス・キリストの栄光と言う時に、その最も中心に据えられているのは、やはりイエス・キリストの十字架の出来事ではないかと思います。汲めども汲めども尽きることのないぶどう酒、即ち、思いと言葉と行いにおいて、知っていながら、あるいは知らず知らずの内に悔いてはまた犯す私たちの罪を、主は悔い改めるならば何度でも赦し、立ちあがらせて下さいます。このイエス・キリストの十字架の救いの御業が、この汲めども汲めども尽きることのないぶどう酒によって象徴的に表され、先取りされているのです。ここにこそイエス・キリストの救い主としての素晴らしさがあるのだ、とヨハネは強調したいのです。

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