日曜朝の礼拝「神の小羊」

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神の小羊

日付
説教
吉田謙 牧師
29 その翌日、ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った。『見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。』
ヨハネによる福音書 1章29節-34節

洗礼者ヨハネは、イエス様が自分の方にやって来られるのを見ながら、『見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。』と人々に指し示しました。では、この洗礼者ヨハネの「世の罪を取り除く神の小羊」という言葉を聞いて、人々はどういう救い主を思い描いたでしょうか。この小羊という言葉から人々が連想したのは、旧約聖書の出エジプト記に登場する「過ぎ越しの羊」とイザヤ書53章の「苦難の僕」の預言でした。いずれも、これから来られる救い主は、私たちに降りかかる神の裁きを、私たちから過ぎ去らせてくださるお方なのだ、ということを告げていました。特に、イザヤ書53章の「苦難の僕」の預言には、一人の僕が、彼自身何の落ち度も罪も持っていなかったにも関わらず、罰せられ、苦しめられる姿が描かれています。そして、その理由は、罪を犯したイスラエルの人々の罪を彼が背負い、その人々に代わって罰を受けたからだ、と説明されているのです。

 洗礼者ヨハネのもとに集まった人々は、自らの罪を悔い改めて、洗礼を受けました。しかし、それだけでは、まだ何の解決にもなりません。いくら私たちが神様の御前で「自分が悪かった」と告白したとしても、それだけで問題が解決するわけではないのです。大切なのは、自分がその犯した罪を悔い改めた上で、その罪を償うことでしょう。しかし、ここで更に問題なのは、私たちには、その自分の犯した罪を、自分で償う力がない、ということです。償うどころか、私たちは日ごとに罪を犯し、その問題を更に深刻にすることしかできません。ここで洗礼者ヨハネが証言している「神の小羊」は、その私たちのために、私たちに代わって罪を償うお方、世の罪を取り除く神の小羊なのであります。

ここで「自分の方へ」と訳されている言葉には、「自分の近くに」「自分のために」という意味があります。イエス様は、私たちのもとに来てくださるお方、私たちに近づいてくださるお方、私たちのために来てくださるお方なのです。洗礼者ヨハネがイエス様のことを知ることが出来たのは、イエス様の方が彼に近づいて下さったからでした。それと同じように、神の御子が私たちのために、私たちに近づいてくださいます。私たちが捜し求め、尋ね歩き、修行を重ね、なんとか辿り着こうと頑張るのではなくて、神様の側から私たちに近づき、自ら進んで犠牲を払って、私たちに救いをもたらしてくださるのです。

 こうして神様ご自身が私たちに近づき、聖霊が私たちに働きかけて下さるならば、私たちも、洗礼者ヨハネのように、「イエス様を見た!」と証しすることが出来るのではないでしょうか。いや、私たちは洗礼者ヨハネよりも、もっと鮮やかな仕方で、「わたしは、それを見た!」と証しすることが出来るはずです。あの独り子である神、イエス・キリストが私たちの罪を全部背負って、十字架の上で死んで下さいました。もう私たちに対する神の怒りと呪いは一欠片も残っていません。全部イエス様が引き受けて下さいました。また、私たちが成すべきこと、即ち神様に従い抜くという歩みも、イエス様がこの地上の歩みの中で、全部成し遂げて下さいました。私たちは、あれをしなければ救われないとか、これをしなければ救われない、ということからは完全に解放されたのです。またイエス様は、十字架の上で死んで終わりというのではなくて、罪と死に打ち勝ち、三日目に甦って、私たちに永遠の命を与えると約束して下さいました。私たちは、このイエス・キリストの救いの恵みを、実際に味わっているのです。洗礼者ヨハネは、イエス様のことを直接に指さして、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」と言うことが出来ました。ところが、イエス様が私の罪を取り除いて下さるということについては、彼自身、味わうことが出来なかったのです。何故ならば、まだこの時には十字架の出来事が起こっていなかったからです。残念ながら彼は、それを味わう前に、殉教の死を遂げました。ですから、彼はイエス様の素晴らしさを証しすることが出来ても、イエス様の十字架の愛を味わうことは出来なかったのです。このことを実際に味わい、人に知らせることが出来るのは、私たちクリスチャンだけでありましょう。

 よくテレビで料理番組をしています。その料理番組の決め手は何かと言うと、それは食べ手なのです。食べる人間が「美味しい」と一言言わないと、料理番組は成り立たない、と言うのです。どんなに解説する人が料理人の腕を上手に誉めたとしても、出来上がった料理を食べる人が、本当に美味しそうな顔をして「これは美味しい」と言わないと、料理番組としては説得力に欠けるのです。どんなに誉め言葉を使っても、この食べる人の嬉しそうな顔には到底かないません。

 私たちは、本当に愚かで、罪深い者たちですから、何度も何度も同じ過ちを繰り返し、いくら何でも、これでは救われないのではないか、と自分自身にガッカリすることがあります。けれども、そんな時に主は私たちに語りかけて下さいます。「あなたの痛みは知っている。苦しみは知っている。悲しみは知っている。あなたが今くじけそうになっている弱さは知っている。大丈夫。私があなたの弱さや破れや失敗、罪や背きを全部十字架の上で担った。悲しみや苦しみや痛みの背後にある神の怒りと呪いを全部私が担った。もうあなたには神の怒りと呪いは向けられない。あなたも立ち直れる。安心して行きなさい!」このように主は、繰り返し、私たちを、時には厳しく、また時には優しく、励まして下さるのです。そうやって私たちは、失敗を繰り返しながらも、この神様の大きな大きな愛に包まれながら、少しずつ成長していくことが出来るのではないかと思います。この姿によって私たちは、神様の救いの素晴らしさを、あの洗礼者ヨハネ以上の仕方で鮮やかに現すことが出来るのです。「これから出来る料理は美味しいですよ」と解説するのではなくて、実際に料理を食べながら、「本当に美味しい!」と言うことが出来る、これが私たちの役割ではないかと思います。

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