日曜朝の礼拝「小さな者を軽んじるな」

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小さな者を軽んじるな

日付
説教
吉田謙 牧師
10 これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい。言っておくが、彼らの天使たちは天でいつもわたしの天の父の御顔を仰いでいるのである。・・・・ 14 これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない。
マタイによる福音書 18章10節-14節

地上では、小さな者と呼ばれ、周囲の人々からは軽んじられてしまうような人たちがいます。人よりも能力が劣っているとか、信仰が弱いとか、未熟である、という理由で、あまり大切にされないようなことが起こってしまうのです。けれどもイエス様は、そのような小さな者たちに関わる天使たちが、天において、いつも父なる神様の御顔を仰いでいるのだ、と言われました。つまり、私たちが小さいと考えているその人も、神様の御前では決して軽い存在ではない、ということです。私たちには、その人の弱さや欠点ばかりが目についてしまうのかもしれません。自分とは考え方がまるっきり違うし、同じ失敗を何度も繰り返している、そういうことが重なると、私たちはいつの間にか、その人を軽んじてしまうことがあるのです。けれども、私たちがその人をどう評価するかということと、神様がその人をどう見ておられるかということは、決して同じではありません。神様は、その小さな一人をも大切な存在として受けとめておられます。ですから、その大切な一人をあなた方は決して軽んじてはならない、と主は言われるのです。

 そして、イエス様は、神様がその小さな一人をどれほど大切にしておられるのかを、さらに具体的に示すために、「迷い出た一匹の羊」の譬え話を語られたのでした。

 九十九匹の羊にとっては、迷い出た一匹は、群れからいなくなった一匹にすぎないのかもしれません。しかし、羊飼いにとっては、決してそうではないのです。その一匹も、残された九十九匹と同じように、いや、今まさに失われようとしているからこそ、捜し出さなければならない大切な一匹なのです。そういうわけでイエス様は、私たちに、その一人をもう一度、神様の御前にある大切な一人として見つめ直すようにと招いておられます。そして、その人が再び主のもとへと立ち返ることを、私たち自身の願いとするようにと呼びかけておられるのです。

 しかし、ここで私たちは、ただ自分たちの冷たさや無関心を責められているだけではありません。私たち自身もまた、主に捜し出していただかなければならない羊だからです。私たちは皆、もともとは父なる神様のもとから迷い出て、放蕩息子のように、自分勝手な生き方をし、神様を神様とは思わず、ないがしろにしてきました。私たちは皆、そういう失われた羊だったのです。その私たちを、神様の独り子イエス・キリストが、十字架の苦しみと死によって赦し、神様のもとへと立ち返らせて下さいました。私たちが立ち返ったと言うよりも、イエス様が、崖の上で身動きがとれなくなっていた私たちを探し出し、肩に背負い、父なる神様のもとへと連れ帰って下さったのです。この羊飼いであるイエス様の救いの御業によって私たちは、神様の牧場の羊の群れとされました。それが教会なのです。しかし、そのようにして神様のもとに集められた群れ、教会において、私たちは、またつまずき、再び迷い出てしまいそうになることがあります。あるいは同じ恵みによって集められた兄弟姉妹のことを受け入れることができず、軽んじ、つまずかせてしまうことがあるのです。つまり、私たちの信仰の歩みは、ある時はつまずく者であったり、またある時にはつまずかせる者であったりするのです。要するに、九十九匹と一匹の間には絶対的な違いはありません。ある時には九十九匹の方であり、またある時には失われた一匹の方である、昨日まで失われた一匹であった者が、今日は九十九匹の中にいたりするのです。

 私たちは皆、自分の力だけでは信仰を保つことができません。私たち自身が主に捜し出され、支えられなければならない者たちなのです。そういう意味では、私たちは皆、主の憐れみを必要としている小さな者たちなのだ、ということでしょう。教会の中で、ある人々だけが特別に小さな者であるわけではありません。私たちはお互いに、小さな者たち同士なのです。それゆえに、お互いに相手を軽んじてしまったり、お互いに受け入れ合えないようなことが起るのです。しかし同時に私たちは、かつては「捜し出していただいた羊」として、その恵みをちゃんと知っている者であるからこそ、今度は喜んで「捜す側」にも立つことができます。私たちが人を捜しに行くのは、神様に認められるためでも、自分の力で人を救うためでもありません。私たち自身が、神様に捜していただき、赦していただいた者だからです。

 私たちはイエス様と全く同じようにして、その人に寄り添い、その人の心を癒すことなどできません。時にはその人の心を逆に傷つけてしまうこともあるのかもしれない。けれども、それを恐れていては何もできないと思います。私たちには、それぞれに欠けがあり、弱さがあり、限界があります。どんなに頑張ってみても、全ての人の気持ちを理解し、寄り添い、その心を癒すことなどできません。けれども、失敗しても、失敗しても、イエス様の十字架によって赦していただきながら、諦めずに、その人に寄り添い続けることは、私たちにもできることではないでしょうか。

 また私たちは、今、教会から離れている兄弟姉妹のことをも視野に入れなければなりません。14節には、「これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなた方の天の父の御心ではない。」と言われています。天の父なる神様は、小さな者がつまずき、教会から離れ、滅んでしまうことを決して望んでおられません。天の父なる神様の望みは、迷い出てしまった小さな者が、信仰に立ち返り、教会に立ち返り、共々に命にあずかることなのです。

 私たちが、今、教会にとどまることができているのも、迷い出てしまいそうになった時に、多くの信仰の友が心配し、励ましてくれたからではないでしょうか。私自身もそうでした。教会につまずき、ヤケになってしまった時に、信仰の友が共に祈ってくれました。私のつぶやきを何度も何度も聞いてくれました。そして、その信仰の友が、もう一度、私を教会へと連れ戻してくれたのです。今度は、私たちが失われた魂を主と共に探しに行く番ではないでしょうか。

 その歩みは、すぐに実を結ぶとは限りません。声をかけても応答がないこともあるでしょう。関わろうとして、かえって傷つけてしまうこともあるかもしれません。それでも、私たちは諦める必要はないのです。その人を愛しておられるのは、私たち以上に、天の父なる神様だからです。

「これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない。」この御言葉を心に刻みつつ、今、教会から遠ざかっている兄弟姉妹のためにも祈り続けましょう。そして、いつの日か、再び共に主を礼拝し、共に喜ぶ日が与えられることを信じ、希望をもって歩んでいきたいと思います。

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