誰が一番偉いか
- 日付
- 説教
- 吉田謙 牧師
3「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。4 自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ。5 わたしの名のためにこのような一人の子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。」
マタイによる福音書 18章1節-9節
千里摂理教会の日曜礼拝は10時30分から始まります。この礼拝は誰でも参加できます。クリスチャンでなくとも構いません。不安な方は一度教会にお問い合わせください。
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この18章は、弟子たちがイエス様のところに来て、『いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか』と質問したところから始まります。イエス様はこの弟子たちの問いに答えるために、一人の子供を呼び寄せられました。そして二つの教えを教えられたのです。一つ目の教えは「子供のようになりなさい」という教えであり、もう一つの教えは「一人の子供を受け入れなさい」という教えでした。
まず最初に、「一人の子供を受け入れなさい」という教えから見ていきましょう。そもそも子供というのは、自分の力だけで生きていくことが出来ません。大人に守られ、養われ、支えられなければ生きていくことが出来ないのです。そういうことから、当時、子供は、弱く、無価値な存在として受けとめられており、弟子たちが求めていた「偉さ」や「地位」からすると全く正反対の存在でした。そのような子供をイエス様は弟子たちの真ん中に立たせ、その子供を「受け入れる」ことを求められたのです。ここに、イエス様が教えておられる教会のあり方の一つのヒントがあります。教会は子供を受け入れるのです。それは子供が純真で素直だからではありません。そういうことなら、「受け入れる」という言葉は用いられなかったでしょう。受け入れるとは、ともすれば排除されてしまうような者を受け入れる、ということです。そして、このことは年齢的な意味での子供を指しているだけではありません。「あいつはまだ子供だ!」という批判は、子供に対して言われる言葉ではないのです。年齢的には大人だけれど、ちゃんと成熟していない、適切な判断ができず、周囲に気配りができない、そういう人のことを言うのです。「わたしの名のためにこのような一人の子供を受け入れる」というのは、そのような人のことも含まれていると考えるべきでしょう。
このように、「一人の子供を受け入れなさい」という教えは、かなりの広がりを持っています。そして、その広がりが具体的に語られているのが、次の6節以下なのです。「しかし、わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、深い海に沈められる方がましである。」
ここで言う「つまずかせる」というのは、その人の信仰の妨げになることです。その人がイエス様を信じ続けることができなくなるような原因を作ることであります。このことは、「一人の子供を受け入れる」こととは何の関係もないかのようにも思えます。けれども、実はそうではないのです。この「これらの小さな者の一人」という言葉は、5節の「一人の子供」の言い換えなのです。新共同訳聖書では5節と6節の間には小見出しがあって、そこで話が区切られているかのように思えます。しかし、もともとはそこに区切りなどはありません。「わたしの名のためにこのような一人の子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。しかし、わたしを信じるこれらの小さな者の一人、即ち一人の子供をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、深い海に沈められる方がましである。」と続いているのです。つまり、「一人の子供を受け入れる」ことと、「これらの小さな者の一人をつまずかせる」ことは、全く正反対のことなのです。この言い回しによってイエス様は、人をつまずかせることは、その人を受け入れないことによって起る、ということを教えようとされたのでした。
私たちは、教会の一員として、信仰仲間をつまずかせてはならない、と思います。あるいは、信仰者である自分の言動が、家族や友人など、まだ信仰を持っていない人々へのつまずきになってはいけない、とも考えます。けれども、そのつまずきが何によってもたらされるのかを、私たちは果たして知っているでしょうか。人をつまずかせる原因は、私たちの様々な言動の中にあります。しかし、その言動の根底には、相手を一人の大切な存在として受け入れようとしない思いが潜んでいるのではないでしょうか。このことを私たちは、今日の御言葉からしっかりと聞き取らなければなりません。一人の子供を受け入れようとしない思い、未熟で、物事の道理をわきまえず、人に迷惑をかけてばかりの一人の小さな者を受け入れようとしない思いこそが、人をつまずかせ、信仰を失わせ、人を教会の交わりから排除していくことの根っこにある問題なのです。イエス様は、「これらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、深い海に沈められる方がましである」と言われました。これは二度と体が浮かび上がってこないことから、永遠の滅びを意味しました。人を躓かせることは、そういう刑罰をもってしても、まだ足りないほどに重い罪なのだ、と主は言われるのです。これは人を躓かせる者への警告であると同時に、一人の子供を受け入れない者への警告でもあります。
何のとりえもない、弱く、ちっぽけな私が、神様によって受け入れられている、それゆえに私たちも、一人の小さな者を受け入れていく、それがここで教えられている信仰のあり方です。そこで最も肝心なことは、「この私が神様によって受け入れられている」ということです。では、そのことは、どうして分かるのでしょうか。実はそのことこそ、もう一つの教え、3節の「心を入れ替えて子供のようになる」ということと深く関係しているのです。子供のようになるとは、子供のように純真な者になるということでも、子供のように謙遜になるということでもありません。子供というのは、親に受け入れられている存在です。愛されている存在です。それは子供が何か立派なことをしたからとか、どれだけ純真だからとか、謙遜だからとか、そういう理由によるのではありません。子供は子供というだけで、親から愛され、受け入れられているのです。罪人である人間の親子関係は、必ずしもそうはならない場合もあるでしょう。けれども、天の父なる神様は、独り子イエス・キリストをこの世に遣わし、その十字架と死によって私たちの罪を赦し、私たちを子供として愛し、受け入れて下さいました。「子供のようになる」とは、この父なる神様の愛に自分は包まれていると信じ、子供が親の愛を疑わずに甘えるように、父なる神様によりすがって生きることなのです。