神の子供たち
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- 吉田謙 牧師
25 「シモン、あなたはどう思うか。地上の王は、税や貢ぎ物をだれから取り立てるのか。自分の子供たちからか、それともほかの人々からか。」26 ペトロが「ほかの人々からです」と答えると、イエスは言われた。「では、子供たちは納めなくてよいわけだ。」27 しかし、彼らをつまずかせないようしよう。
マタイによる福音書 17章22節-27節
千里摂理教会の日曜礼拝は10時30分から始まります。この礼拝は誰でも参加できます。クリスチャンでなくとも構いません。不安な方は一度教会にお問い合わせください。
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弟子たちは、イエス様から二度目の受難予告を聞いて、恐れと不安にさいなまれていました。そんな時にペトロは、「あなたたちの先生は神殿税を納めないのか」と神殿税を徴収する係の者から問われました。受難予告によって漠然と感じていた不安や悲しみが、この神殿税の問題によって、急に身近な問題として迫って来たのです。ペトロは、この問いに対して「納めます」と答えました。「納めないのか」と問われて、「いや、納めますよ」と返事したのです。ペトロは、そのことをいちいちイエス様に確かめたわけではありません。しかしイエス様のお気持ちがどうであれ、ここは「納める」と言っておいた方が無難だ、イエス様がもし「そんなものは納めない」と言われたとしても、イエス様には黙って自分が二人分納めればよい、彼はそのように判断したのだと思います。そんな中でペトロに語られたのが、このイエス様のお言葉なのです。
「税金や貢物を王様に納めるのは誰か。それは王の子供たちか。それとも他の人々、つまりその国の住民や王に支配されている人々か」という問いです。その答えは明らかでしょう。税金を取り立てられるのは王の家族ではありません。「ほかの人々」です。ペトロがそのように答えると、イエス様は「では、子供たちは納めなくてよいわけだ」と言われました。ここでイエス様は、ご自分が神の子であることを前提として語っておられます。イエス様は、ペトロが「納めます」と言って、勝手にイエス様の分まで支払おうとしているのを見抜かれて、このように言われたのでしょう。けれども、このイエス様のお言葉には、それだけにとどまらず、もっと深い意味と含蓄があります。まず気づくことは、「では、『子供たちは』納めなくてよいわけだ」と、「子供」が複数形になっていることです。勿論、ここでまず第一に指し示されているのは、父なる神の独り子であるイエス様のことです。しかし、マタイによる福音書全体を読む時に、ここにイエス様によって神の子とされる弟子たちの姿も重ねて見ることができるのではないかと私は思います。
また、「子供たちは納めなくてよいわけだ」の「納めなくてよい」と訳されている言葉は、もともとは「解放されている」「自由である」という意味の言葉です。「子供たちは解放されている」「自由なのだ」とイエス様は言われました。それはただ神殿税を支払う義務がない、というだけのことではありません。神様の子供とされるならば、人は自由になり、解放されるのです。では何から解放されるのでしょうか。それは第一には、神殿税に象徴されるような、神様の家来としての義務からの解放です。ここでいう「家来」とは、神様を恐れ、見捨てられないために義務を果たそうとする関係を意味します。神様と私たちとの関係が、そういう恐れによって支配される王様と家来の関係であるならば、私たちには、当然、神様に税金や貢物を納める義務があることになります。そういう義務を果たすことによって、王様である神様への服従を示さなければならないのです。けれどもイエス様は、それとは違う関係を神様と私たちとの間に打ち立てて下さいました。それは、傍若無人な王様のもとで恐れに支配されながら仕える家来と王様との関係ではなくて、愛されている子供として喜んで父に仕える父と子の関係です。
イエス様は、神様との関係を、そのような父と子の関係として示してくださいました。これは具体的にはどういうことでしょうか。親は子供が悪いことをすると叱ります。しかし、それによって子どもを愛さなくなるわけではありません。神様も同じです。神様は、罪を犯した私たちを戒められます。けれども神様は、そんな私たちを、決してお見捨てにならないのです。むしろ、罪を抱えた私たちを御自分のもとへと招き、赦し、新しく生かしてくださいます。神様はそういう私たちの父になって下さったのです。
そして、だからこそイエス様は、27節で「しかし、彼らをつまずかせないようにしよう」と言って、イエス様とペトロの二人が、神殿税を納めるための手配をして下さったのです。神の子供たちなのだから、神殿税など納める必要はない、ということを主張するのなら、これは矛盾することになります。妥協して神殿税を納めるとイエス様の負けになってしまう。しかし、イエス様はそんなことには、全くこだわっていません。イエス様の願いは、ペトロが、そして私たちが、神様の子供たちとして、恐れや不安から解放され、神様に愛されている者として、もっと自由に生きて欲しい、ということなのです。その自由に生きる時に、そこには「彼らをつまずかせないように」という余裕が生まれてきます。イエス様は「神殿税を納めよう!」と言われました。しかしそれは、ペトロが恐れや不安から「納めます」と言ったのとは全然違います。人々への恐れから、事を荒立てないように神殿税を納めようとしたペトロを、今度は「人々をつまずかせないように」という配慮から神殿税を納めるペトロへとイエス様は変えて下さるのです。それは表面的に見れば、あまり変わりばえのしないことなのかもしれません。しかし、恐れて、自分の身を守るためにそうすることと、人をつまずかせないようにと配慮しながらそうすることとは、全然違うことです。神の子とされた者は、神様に愛され、神様に支えられていますから、人の目を恐れて生きる必要はありません。だからこそ、人から矛盾だと言われようが、人を愛するために必要とあれば自分の権利さえ手放すことができるのです。
ここで私たちが注意しなければならないことは、人々がつまずかないように配慮し、なんでもかんでも世間の常識や習慣に、こちら側が合わせていく必要はない、ということです。もし教会が人々に躓きを与えないようにと配慮し過ぎて、福音そのものまでも曲げてしまうようなことがあったならば、それは本末転倒です。そんなことをして、たとえ教会に人が沢山集まったとしても、もうそこには本当の命はありません。
そもそも私たちが自由であるというのは、何でも好き勝手にできるということではありません。人の目を恐れて生きなくてよい、ということです。神様に愛されていることを知っているからこそ、必要な時には人と違う道を歩むことができます。また同時に、必要な時には自分の権利を放棄し、人を愛することができるのです。これが、神の子とされた者の自由です。