日曜朝の礼拝「からし種一粒の信仰」

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からし種一粒の信仰

日付
説教
吉田謙 牧師
18 そして、イエスがお叱りになると、悪霊は出て行き、そのとき子供はいやされた。19 弟子たちはひそかにイエスのところに来て、「なぜ、わたしたちは悪霊を追い出せなかったのでしょうか」と言った。20 イエスは言われた。「信仰が薄いからだ。はっきり言っておく。もし、からし種一粒ほどの信仰があれば、この山に向かって、『ここから、あそこに移れ』と命じても、そのとおりになる。あなたがたにできないことは何もない。」マタイによる福音書 17章14節-20節

 ある父親が、息子を悪霊から救いたいと願い、イエス様のもとに連れて来ました。ところが、ちょうどその時、イエス様は、三人の弟子たちと一緒に山に登っておられ、不在だったのです。そこで、この父親は、残っていた弟子たちに、「この子から悪霊を追い出してください!」と願いました。おそらく弟子たちは、この父親の願いに応えて、悪霊を追い出そうと必死に試みたのでしょう。けれども、結局、彼らにはそれが出来ませんでした。残念ながら、彼らの試みは失敗に終わってしまったのです。

 そこへイエス様一行が山からおりて来られました。そして、イエス様は「その子をここに、わたしのところに連れて来なさい」と言われ、イエス様が悪霊を叱ると、悪霊は出て行き、子供は癒された、と言われているのです。イエス様は、弟子たちがどうしても追い出すことが出来なかった悪霊に打ち勝ち、その支配から子供を解放して下さったのです。これは、イエス様が彼らの苦しみをしっかりと背負い、救って下さった、ということでしょう。

 19節以下には、弟子たちがひそかにイエス様のところに来て、「なぜ、わたしたちは悪霊を追い出せなかったのでしょうか」と尋ねたことが語られています。「ひそかに」というところに、弟子たちの思いが表れています。悪霊を追い出そうとしたのに、できなかった彼らは、その挫折に傷つき、苦しんでいました。人々の前で、弟子としての証しを立てられなかったという恥かしい思いがあり、とても人前に堂々と顔を出すことなど出来ないと躊躇していたのかもしれません。

それに対してイエス様は、こうお答えになります。20節。「信仰が薄いからだ。はっきり言っておく。もし、からし種一粒ほどの信仰があれば、この山に向かって、『ここから、あそこに移れ』と命じても、そのとおりになる。あなたがたにできないことは何もない。」

 「からし種一粒ほどの信仰があれば、山も動く」と言われています。この『山を移す』というのは、当時のユダヤ的な表現で、非常に困難なことを成し遂げるという意味です。しかし、イエス様がここで強調されているのは、巨大な信仰を持てということではありません。そうではなくて、たとえからし種一粒ほどの小さな信仰であっても、その信仰が向かう先におられるイエス様が大きい、ということです。このことは「信仰が薄い」という言葉に注目する時に、より鮮明になっていきます。

この「信仰が薄い」という言葉は、マタイが繰り返し語っている言葉です。8章26節に、ガリラヤ湖の嵐によって舟が沈みそうになり、慌てふためいている弟子たちに、イエス様が、「なぜ怖がるのか。信仰の薄い者たちよ」と言われた、とありました。また14章31節には、イエス様に願い、ガリラヤ湖の水の上を歩いたペトロが、風を見て怖くなり、沈みそうになった時に、イエス様がペトロに手を差し伸べ、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言われたことが記されています。これら二つの箇所を読むと、「信仰が薄い」とイエス様が言われたことの中身が次第に見えてきます。それは、イエス様が共にいて、守り支えて下さることを見失い、それによってむしろこの世の現実に働く罪の力に目が移り、それに翻弄されて右往左往してしまう、ということです。それが「信仰が薄い」ということの中身であり、それゆえに彼らは、悪霊を追い出すことができなかったのです。ここで問題になっているのは、信仰の姿勢です。からし種一粒とは、最も小さいもののたとえです。どんなに小さくても、信仰があれば、不可能が可能になる、と言われているのです。その信仰とは、共にいて下さるイエス様を見つめることです。神様の恵みに敵対する様々な力がこの世を支配し、私たちを翻弄しています。そのような現実の中で、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と約束して下さるイエス様を見つめ、イエス様から目をそらさないことです。「信仰の薄い者よ」と言いつつも私たちを担い、支え、助けて下さる、このイエス様を見つめ続けることであります。ここで問われている信仰とは、何よりも、この共にいてくださるイエス様に目を向けることなのです。

 私たちの人生には、様々な苦しみや悲しみがあります。時には八方ふさがりの中で、どうすることもできず、じっと耐えなければならないこともあるでしょう。そんな時に、私たちの信仰が揺らいでしまうこともあります。しかし、大丈夫です。私たちの信仰が揺らぐことがあっても、イエス様は揺らぐことがありません。私たちがイエス様から目をそらしてしまうことがあっても、イエス様は私たちから目をそらすことがないのです。十字架の死を突き抜けて、復活によって死に勝利されたイエス様が、どんな暗闇の中にあっても、私たちと共にいてくださいます。

 「あなたは揺らぐかもしれない。しかし、私は決して揺らがない。今、あなたを苦しめている悪の力にも、私は既に勝利している。安心しなさい。私が守る。私が共にいる。どんなことがあろうと、私は決してあなたを見捨てない。私は世の終わりまでいつもあなたがたと共にいる!」このようにイエス様は約束してくださるのです。

 たとえからし種一粒ほどの小さな信仰であってもよいのです。ただ、その小さな信仰をもって、共にいてくださるイエス様に目を向け、そのイエス様の手を離さない。しかも、私たちの力でイエス様の手を離さないのではなくて、イエス様が弱い私たちの手をしっかりと握り締めていて下さいます。この主の恵みこそが、私たちの信仰を支えてくれるのです。

 そういうわけで、私たちが握っている信仰の強さではなくて、私たちを握りしめてくださる主の恵みに信頼しつつ、これからも希望をもって歩み続けていきたいと思います。

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