山上の変貌-十字架の先にある栄光
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- 説教
- 吉田謙 牧師
1 六日の後、イエスは、ペトロ、それにヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。2 イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった。3 見ると、モーセとエリヤが現れ、イエスと語り合っていた。4 ペトロが口をはさんでイエスに言った。「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。お望みでしたら、わたしがここに仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」5 ペトロがこう話しているうちに、光り輝く雲が彼らを覆った。すると、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」という声が雲の中から聞こえた。マタイによる福音書 17章1節-13節
千里摂理教会の日曜礼拝は10時30分から始まります。この礼拝は誰でも参加できます。クリスチャンでなくとも構いません。不安な方は一度教会にお問い合わせください。
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イエス様は、ご自身の十字架への歩みを弟子たちに打ち明けられ、動揺する弟子たちに向かって「あなた方も自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と励まされました。そして、その六日後にイエス様は、ペトロ、ヤコブ、ヤコブの兄弟ヨハネを連れて、高い山に登られたのです。そこで彼らは、眩いばかりに光り輝くイエス様のお姿を目撃したのでした。
ペトロは、救い主ならば、力をもって敵に勝利し、栄光を受けるべきだと考えていました。ペトロにとって、救い主が十字架刑に処せられ、惨めな死を遂げることなど、絶対にあってはならないことだったのです。そして、これはペトロだけのことではなくて、全ての弟子たちにも言えることでした。この時、神様は、そういう弟子たちに対して、イエス様の十字架の死が最後ではなくて、その苦難の先に、栄光に輝く復活があることを、この「山上の変貌」の出来事を通して、弟子たちに鮮やかに示して下さったのでした。
このようにイエス様は、ただ言葉だけでなく、様々な出来事を通しても、忍耐強く弟子たちを教え続けられました。しかし、この後を読み進めていくと、結局、彼らは、イエス様が十字架にかかる時まで無理解のままであったことが分かります。まだ十字架のイエス様のお姿を知らない弟子たちにとって、残念ながら、この山上の変貌の出来事は、ただ夢のような出来事にしか過ぎなかったのです。彼らは、「ここに仮小屋を三つ建てましょう」と、ただこの夢のような状態が、少しでも長く続くようにと願うことしか出来ませんでした。けれども十字架をくぐり抜け、復活なさったイエス様と出会った時に、彼らは、この山上の変貌の出来事が本当は何を示していたのかが分かったのです。そして、このイエス様の十字架の道が、あらかじめ自分たちに、色んな仕方で示されていたことに気づいた弟子たちは、今度は、この十字架の先にある栄光を大胆に証しし始めたのでした。
今の私たちには、この時の弟子たちのように、光り輝くイエス様のお姿を見ることは出来ません。けれども私たちは、週毎の礼拝の中で、御言葉の解き明かしを聞き、聖餐の礼典にあずかり、祈り、信仰告白をし、賛美の歌を声高らかに歌う中で、この復活の主と相まみえることが出来るのです。今もイエス様は、この礼拝の中心に確かにいて下さいます。しかし、もし私たちの教会の礼拝が、今日の箇所でペトロたちが願ったように、小屋を建て、教会の中だけに閉じこもり、現実の世界から離れてしまうならば、やがて私たちはキリストのお姿を見失ってしまうでしょう。キリスト教信仰は、山の上にとどまり、非日常的な神秘の世界に逃避するためのものではないからです。キリストは山から降りて、十字架の苦しみが待つ現実の世界へと戻って行かれました。キリストを信じる私たちも、このキリストの御跡に従わねばなりません。私たちは礼拝において、主の御前に立ち、御言葉に聞き、主の栄光を仰ぎ見ます。しかし礼拝は、そこで人生を終えるための場所ではありません。主は私たちを、もう一度、それぞれの生活の場へと遣わされます。山の上で与えられた恵みを携えて、山を下りていくのです。
ヨハネの手紙第一に、こういう御言葉があります。「愛する者たち、わたしたちは、今既に神の子ですが、自分がどのようになるかは、まだ示されていません。しかし、御子が現れるとき、御子に似た者となるということを知っています。なぜなら、そのとき御子をありのままに見るからです。」(ヨハネの手紙一3:2)。
私たちの人生には様々な苦難があります。耐えられないような大きな悲しみを経験することもあるでしょう。けれども、イエス・キリストを信じ、イエス・キリストの御跡に従う者たちは、ただ自分の十字架を背負って、様々な苦しみや悲しみと向き合うだけではなくて、栄光に輝くゴールが約束されているのです。あのイエス様の山上の変貌は、栄光に包まれたイエス様の復活のお姿の先取りだけではなくて、自分の十字架を背負って生きる私たちが、今、どこへ向かって歩んでいるのか、その目的地にある輝きと喜びを前もって見させて下さった、ということです。やがて私たちにも、あの栄光に包まれたイエス・キリストに似た者へと造り変えられる日が必ずやって来ます。なお私たちには様々な苦難があることでしょう。自分の十字架を背負って、愛に生きようとする時に、相変わらずの自分に嫌気がさしてしまうのかもしれません。しかし、そんな時に、こんな私たちでも、やがてあの栄光に包まれたイエス・キリストに似る者へと造り変えられる、という展望が与えられているならば、私たちは、今日という日に経験する様々な苦難にも、なお立ち向かう勇気と力が与えられるのではないか、と思います。
私たちは今、山の上の栄光を直接見ることはできません。しかし、私たちには約束があります。十字架の先には復活があり、苦難の先には栄光があり、この地上の歩みの先には、キリストに似る者へと造り変えられるという完成の日があるのです。ですから私たちは、山の上にとどまり続けるのではなくて、主と共に山を下りていきましょう。そして、それぞれの家庭や職場や地域社会、自分が置かれた現実の場へと主と共に帰って行きたいと思います。「これはわたしの愛する子。これに聞け。」この御声を心に刻みつつ、自分の十字架を背負いながら、しかしその先にある栄光を望み見つつ、今日もイエス様の後につき従っていきたいと思います。