日曜朝の礼拝「命の代価」

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命の代価

日付
説教
吉田謙 牧師
24 自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。・・・ 26 自分の命を買い戻すのに、
どんな代価を支払えようか。
マタイによる福音書 16章21-28節

24節の「自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」という御言葉を原文で読むと、この言葉が23節の「サタン、引き下がれ」というペトロへの叱責の言葉と密接につながっていることがよく分かります。「サタン、引き下がれ」という言葉は、先週もお話ししましたように、直訳すると、「退け、私の後ろに、サタンよ」となります。そして、この「私の後ろに」という言葉は、4章19節のイエス様がペトロたちを弟子として招かれた「わたしについて来なさい」という言葉にも含まれていました。これを直訳すると、「従いなさい、私の後ろに」となります。このことから、「サタン、引き下がれ」というあの大変厳しい叱責の言葉には、実はイエス様の招きの心が込められていたことが分かります。イエス様は、ここでペトロを「お前はサタンだ」と断罪し、裁いているのではなくて、むしろ、弟子として本来いるべき場所に立ち帰るように、と招いておられます。弟子とは、イエス様の前を歩く人ではありません。イエス様の後ろを歩く人です。クリスチャンは、皆イエス様の弟子ですから、私たちもイエス様の背中を見つめながら、イエス様のすぐ後について行かなければなりません。ペトロもそのような者として歩み出したはずでした。けれども、そのようにして弟子として歩み始め、イエス様を信じる信仰も深まり、「あなたはメシア、生ける神の子です」と信仰告白するまでに成長することができた時に、彼は落とし穴に落ちてしまったのです。自分はもうイエス様のことが分かっていると思った途端に、彼はイエス様の後ろについていくことを止めてしまいました。いや、むしろイエス様の前に立ちはだかり、イエス様の十字架の道を妨げる「躓きの石」となってしまったのです。イエス様は、そういうペトロに対して、「今のあなたは、サタンと同じように、わたしの十字架への道を妨げる躓きの石となっている。あなたは自分の考えをわたしより前に置くのではなく、もう一度、わたしの後ろに戻りなさい!」と招かれたのでした。そして、この「私の後ろに」という言葉が、もう一度、24節にも繰り返されています。それが「わたしについて来たい者は」という箇所です。これも直訳すると、「私の後ろについて来ようと望む者は」となります。つまり、この24節は、イエス様の後ろにつき従っていく弟子たちのあるべき姿を教えようとしているのです。

26節後半には、こうも言われています。「自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。」

 この御言葉を聞く時に、私たちは改めて考えさせられます。では、私たちは自分の命を救うために、いったい何を差し出すことができるでしょうか。お金でしょうか。どれほど大きな財産を持っていても、それによって命を買い戻すことはできません。名誉でしょうか。地位でしょうか。人からの評価でしょうか。それらをどれほど手に入れても、命そのものを買い戻すことはできません。それならば、善い行いをすればよいのでしょうか。人のために一生懸命尽くせばよいのでしょうか。勿論、隣人を愛して生きることは大切なことでしょう。けれども、それさえも、自分の命を神様から買い戻すための代価にはなりません。ここで、私たちは一つの大きな問いの前に立たされます。「自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。」この問いは、私たち自身には答えることのできない問いです。私たちには、自分の命を神様の前で買い戻すことのできる代価がありません。けれども、この問いを、今日の箇所全体の流れの中で聞いてみると、一つのことが見えてきます。イエス様は、この御言葉を語られる直前に、ご自分がエルサレムで苦しみを受け、殺され、そして復活すると語っておられました。つまり、「自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか」という問いのすぐそばに、これからご自分の命を差し出そうとしておられるイエス様がおられるのです。私たちには、自分の命を救うために差し出せるものはありません。けれども、神様は、その私たちを救うために、御子イエス・キリストを与えてくださいました。私たちが神様に何かを差し出し、自分を救ったのではありません。神様の方から、私たちを救うために、御子を差し出してくださったのです。ここに、私たちの救いがあります。 

 ここで、先ほどのペトロの姿をもう一度思い起こしてみたいと思います。イエス様が、「わたしはこれからエルサレムに行き、苦しみを受け、殺され、三日目に復活する」と言われた時に、ペトロは、「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」と言いました。なぜペトロは、そこまでしてイエス様の十字架を拒んだのでしょうか。それは、十字架が救いの道であることを、まだ彼は理解することができていなかったからです。ペトロは、救い主ならば、力をもって敵に勝利し、栄光を受けるべきだと思っていました。そして自分たちも、その力と栄光にあずかりたいと思っていたのです。しかし、神様の救いは、人間が力を得て、自分の命を守ることによって実現するものではありませんでした。いやむしろ、その反対だったのです。自分の命を救うことができない私たちを救うために、御子イエス・キリストがご自分の命を差し出してくださったのです。これが神様の救いのご計画でした。

 だからこそ、イエス様は言われます。「自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」と。自分を捨てるとは、自分の命を捨てることではありません。自分の力で自分の命を救おうとすることを捨てるのです。そして、「私の命は、私自身が救うものではない。キリストが救ってくださるのだ」と信じ、ただただキリストの後ろにつき従っていくことなのです。

 ペトロがイエス様の前に立ちはだかり、十字架の道を遮ろうとした時に、イエス様は「私の後ろに戻りなさい」と言われました。それは、ペトロを突き放す言葉ではありませんでした。「あなたは自分の力で、躍起になって救いをつかみ取ろうと頑張らなくてもよい。ただ私の後ろについて来なさい」と、主はもう一度、ペトロを弟子として招いてくださったのです。

 「自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」という御言葉を聞く時に、ついつい私たちは肩に力が入り、頑張らなければと考えてしまいがちです。しかし、ここで教えられていることは、むしろそれとはまるっきり逆のことなのです。キリストがすでにその代価を支払い、すべてを整えてくださいました。ですから私たちは、自分の力で自分を救おうとする必要はありません。ただ「私の後ろについて来なさい。」という主の御声を聞きながら、安心してイエス様の後ろについていけばよいのです。

 今日も主は私たちに、「私の後ろについて来なさい」と招いてくださいます。私たちは、その御声を聞きながら、主の後ろを歩いていきたいと思います。自分の力で自分を救おうとするのではなく、すでにキリストに救われた者として、御言葉に聞き、祈り、礼拝しつつ、感謝と平安をもって、一日一日、主の後ろにつき従っていきましょう。

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