天の国の鍵
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- 吉田謙 牧師
5 イエスが言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」16 シモン・ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えた。17 すると、イエスはお答えになった。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。18 わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。19 わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」20 それから、イエスは、御自分がメシアであることをだれにも話さないように、と弟子たちに命じられた。
マタイによる福音書 16章13節-20節
千里摂理教会の日曜礼拝は10時30分から始まります。この礼拝は誰でも参加できます。クリスチャンでなくとも構いません。不安な方は一度教会にお問い合わせください。
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イエス様は弟子たちに向かって、「あなた方は私のことを、どのように受けとめているのか?!」と問いかけられました。これに対して、弟子を代表してペトロが、『あなたはメシア、生ける神の子です』と答えることが出来たのです。
これは正しい答えでした。「メシア」というのは、アラム語で救い主という意味です。ペトロは「あなたこそ、私たちがずっと待ちわびていた神様から遣わされたメシア、救い主です」と答えることが出来ました。そして、更に「生ける神の子です」という言葉が、それに付け加えられています。天地万物を造られた主なる神様は今も生きて働いておられます。今も、この天地万物を恵みの御業によって守り、導いておられるのです。その生ける主なる神様が、大いなる恵みによって遣わして下さった神の子、救い主こそイエス・キリストなのだ、とこの時ペトロは告白することが出来たのです。
イエス様は、「あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ」と言われ、「あなたは神様に祝福されている!」と心から喜んで下さいました。そして、この信仰告白をしたペトロに向かってイエス様は、「あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる」と言われたのです。このペトロという名前と「岩」という言葉は、原文では同じ語源を持つ言葉です。ですから、ここには語呂合わせがあります。「あなたはペトロ。わたしはこのペトロという岩の上に教会を建てる」と主は言われたのです。ここで忘れてはならないのは、このイエス様のお言葉は、その前のやりとりに続いている、ということです。18節の最初のところでは「わたしも言っておく」とイエス様は言われました。つまり、その前のペトロの発言、「あなたはメシア、生ける神の子です」というペトロの信仰告白を受けて、イエス様は「あなたはペトロ。わたしはこのペトロという岩の上に教会を建てる」と言われたのです。要するに、イエス様がここで教会の土台となる「岩」として見つめておられるのは、人間ペトロではなくて、この信仰を告白しているペトロなのです。
人間ペトロが土台でないことは、次回学ぶ記事を読めば明らかです。実際にペトロは、今日の箇所では、教会の土台である「岩」と呼ばれていますが、その直後の23節では「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者!」と叱責されています。岩にもなるし、サタンにもなる。それが人間ペトロの実態でした。ですから、大事なのはペトロその人ではなくて、彼が言い表した信仰告白でした。要するに、教会の土台は、ペトロが口にした、「あなたはメシア、生ける神の子です」という信仰告白なのです。
しかし、ここで注意しなければならないことは、今日の箇所の20節のところでイエス様が命じられたことです。そこには、イエス様がメシアであることをだれにも話さないように、と命じられていました。何故、このようなことが命じられたのでしょうか。それは、まだこの信仰告白は完結していなかったからです。ペトロには、まだ見るべきこと、知るべきことがあったのです。そして、それは他の弟子たちについても同様でした。では、彼らが見るべきこと、知るべきこととは何でしょうか。直後の21節には、このように記されています。「このときから、イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた。」
彼らは、これからイエス様の受難と復活の出来事を経験しなければなりませんでした。そして、このことを通して、初めて彼らは本当の意味で、イエス・キリストこそ生ける神の子メシアであると告白することができるのです。すなわち、イエス・キリストこそ十字架にかけられて死に、三日目に復活したメシア、救い主であると告白し、そのように宣べ伝えることができるのです。
この幸いに加えて、さらに主は教会に天の国の鍵を託すという幸いを与えて下さいました。この天の国の鍵も、ペトロという個人に授けられたものではありません。ペトロが弟子たちを代表して告白したあの信仰を受け継ぎ、それを共に告白することで結び合わされたキリストの教会に、この天の国の鍵は授けられたのです。これは、そこだけを取り出して読むと、教会がとてつもなく大きな権力を握っていて、好き勝手に、ある人を救いにあずからせたり、あずからせなかったりすることが出来る、という主張にも聞こえます。けれども、鍵そのものが扉の開閉をするのではありません。鍵はあくまでも扉を開閉するための道具にしか過ぎないのです。それと同じように、教会が人を救うのではありません。キリストの教会は人をキリストに導くために用いられるだけであって、人を救うのはあくまでも神様なのです。
しかもキリストの教会は、今まで見てきましたように、イエス・キリストをメシア、生ける神の子と信じる信仰によって結び合わされている群れです。イエス・キリストを神の子、救い主と信じるとは、神の子であるイエス・キリストが、私たちの罪を全部背負って十字架の上で死んで下さり、私たちと神様との敵対関係に和解を与え、私たちを永遠の命にあずからせて下さるという恵みを信じる、ということです。つまり、このキリストによって、私たちのために天の国の扉が大きく大きく開かれていることを信じることが、キリストの教会の信仰なのです。そうであるならば、この天の国の鍵は、天の国の扉を閉じることが目的ではなくて、キリストによって開かれた救いの扉を、人々に示すための鍵であることが分かってくると思います。教会は、罪と死の力のもとに捕えられ、陰府の力に脅かされている人々に向かって、罪と死からの解放を告げるのです。これこそキリストの教会の使命と言えるでしょう。そして、教会はそのために神様から世に遣わされているのです。