思い起こす信仰
- 日付
- 説教
- 吉田謙 牧師
7 弟子たちは、「これは、パンを持って来なかったからだ」と論じ合っていた。8 イエスはそれに気づいて言われた。「信仰の薄い者たちよ、なぜ、パンを持っていないことで論じ合っているのか。9 まだ、分からないのか。覚えていないのか。パン五つを五千人に分けたとき、残りを幾籠に集めたか。10 また、パン七つを四千人に分けたときは、残りを幾籠に集めたか。11 パンについて言ったのではないことが、どうして分からないのか。ファリサイ派とサドカイ派の人々のパン種に注意しなさい。」 マタイによる福音書 16章1節-12節
千里摂理教会の日曜礼拝は10時30分から始まります。この礼拝は誰でも参加できます。クリスチャンでなくとも構いません。不安な方は一度教会にお問い合わせください。
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弟子たちは、慌ててイエス様の後を追いかけてきたために、食事の調達を忘れ、動顛してしまいました。イエス様はそのような弟子たちの様子を見て、「信仰の薄い者たちよ」と忠告なさったのです。かつてイエス様は五つのパンと二匹の魚で五千人もの人々を満腹にさせてくださいました。「あなた方はそのことを忘れてしまったのか?!そんなことで心が騒ぐのは、まだ私の力を信頼できていないからではないか。それほどまでにあなた方の信仰は小さい!」と主は指摘なさったのです。
では、本当に弟子たちは、あの五千人養いの奇跡を忘れてしまったのでしょうか。あのような大きな出来事や体験が記憶に残らなかったはずがありません。けれども彼らは、それを覚えていることが出来なかったのです。この「覚えている」という言葉は、むしろ「思い起こす」と訳した方がよい言葉です。ただ記憶に残っているというのではなくて、それを積極的に思い起こすのです。そうやって思い起こすことが出来たならば、そのことが今の自分の生活や行動に影響を及ぼしていきます。これが思い起こす、ということの中身です。弟子たちは、あのパンの奇跡を忘れてしまったわけではありません。しかし、それを、今の自分の生活や行動に力を与えるものとして思い起こすことが出来ませんでした。パンの奇跡の体験が、彼らの中で、生きた働きにはなっていなかったのです。その結果、パンを忘れたという現実に直面した時に、あの奇跡の記憶が何の力にもならなかったのです。これが、彼らの信仰の小ささの内容でした。
ここから私たちは大切なことを教えられます。それは、信仰とは思い起こすことなのだ、ということです。信仰とは、与えられた神様の恵みの体験を、ただ忘れずに記憶に留めておくことではありません。過去の神様の恵みを、今の自分の歩みを支える力として思い起こすことなのです。
旧約聖書全体は、イスラエルの民に、エジプトの奴隷状態からの解放と、荒れ野の旅の導き、そして約束の地を与えて下さったその神様による救いの恵みを思い起こさせようとしています。そして新約聖書全体は、キリストの教会に連なる私たちに、神様が独り子イエス・キリストを遣わし、そのキリストの十字架の苦しみと死、そして復活によって私たちの罪が赦され、新しい命、永遠の命の希望が与えられている、という救いの恵みを思い起こさせようとしているのです。私たちは、聖書によって、イエス・キリストの十字架の贖いによる罪の赦しの恵みを教えられ、そして、それを常に思い起こしつつ生きる者とされています。それが、洗礼を受けて教会の枝となることの意味です。そして洗礼を受けた私たちは、イエス・キリストの十字架による救いを思い起こすために、その肉と血とを指し示す聖餐にあずかります。私たちの礼拝も、またそこで語られる説教も、聖餐も、すべてはイエス・キリストによる救いの恵みを思い起こすためのものなのです。そのことを常に思い起こしつつ、それに支えられながら私たちは日々の生活を歩んでいくのです。この「思い起こすこと」をやめてしまったならば、私たちは日々新たに襲いくる苦しみや悲しみ、あるいは自分の失敗や罪に心奪われ、やがてはそれに飲み込まれてしまい、そこから抜け出すことが出来なくなってしまうのではないかと思います。
今、自分が直面している現実、そこには様々な苦しみや悲しみ、困難があることでしょう。それらを、キリストの十字架と復活による神様の救いの恵みを思い起こしつつ見つめていくのです。
御子イエス・キリストの十字架の死によって、私たちの罪は全部贖われました。もう私たちに対する神様の怒りや呪いは一欠片も残っていません。神様と私たちとの関係は、もう敵対関係ではなくて、平和の関係になったのです。ですから、もう私たちは自分の犯した罪によって神様から厳しく扱われることがありません。神様は私たちの罪を赦し、受け入れ、永遠に私たちの味方として共に歩んで下さるのです。このキリストの十字架と復活による神様の救いの恵みを思い起こしつつ現実を見つめる時に、そこには、普通の目では見ることの出来ない、隠された真実が見えてきます。それは、どこにいても、どんな時でも、いつも私たちは神様の恵みの御手の中で守られている、という真実です。
この後、「望みも消えゆくまでに」という讃美歌を歌います。今日の説教準備をしながら、今日の御言葉に相応しい賛美だと思い、説教後に賛美することにしました。こういう賛美です。
「1.望みも消えゆくまでに、世のあらしに悩むとき、かぞえて見よ。主の恵み、なが心は やすきをえん。」望みが消え失せてしまうほどに、世の嵐に呑み込まれてしまう時、そんな時こそ、主の恵みを思い起こそう、主の恵みを数えてみよう、そうすれば、あなたの心は安らぎを得るだろう。こういう賛美です。本当にその通りだと思います。
今、目の前にある現実がどんなに暗く、絶望的であったとしても、私たちはそこから結論を引き出す必要はありません。そのような現実以前に、既に主は十字架の愛で私たちを愛し、その恵みの御手をもって私たちをしっかりと握りしめていて下さいます。そうであるならば、今、目の前にある現実がどうであろうと、思い煩う必要はありません。主は必ず万事を益として下さいます。たとえ現実がどんなに暗く、絶望的であったとしても、私たちは、この主の恵みの御手を信じ、安心して、この世の戦いへと出ていきましょう。