日曜朝の礼拝「主イエスの憐れみ」

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主イエスの憐れみ

日付
説教
吉田謙 牧師
 32 イエスは弟子たちを呼び寄せて言われた。『群衆がかわいそうだ。もう三日もわたしと一緒にいるのに、食べ物がない。空腹のままで解散させたくはない。途中で疲れきってしまうかもしれない。』
マタイによる福音書 15章28節-39節

 今日の箇所には、四千人の人々に食物を与えた奇跡物語が記されています。これと同じような物語が、既に14章13節以下にも語られていました。そこでは五つのパンと二匹の魚で五千人の人々を満腹させられた物語が語られていたのです。では何故マタイは、同じような物語をここに繰り返し語っているのでしょうか。そこには、やはりマタイなりの意図があったと思います。では、マタイは何を思って、この物語を語っているのでしょうか。それは、既に学んだ14章の五千人養いの物語と比較すれば、おのずと明らかになることでしょう。今日の物語と五千人養いの物語との違いは、群衆の食事の心配をしたのは誰か、ということです。五千人養いの話では、まず群衆の食事の心配をしたのは弟子たちでした。ところが、この四千人養いの話では、32節にイエス様のお言葉として「群衆がかわいそうだ。もう三日もわたしと一緒にいるのに、食べ物がない。空腹のままで解散させたくはない。途中で疲れきってしまうかもしれない」と言われています。つまり、群衆の食事の心配をしたのはイエス様なのです。イエス様ご自身が群衆の食事の心配をしておられます。そのことを最も端的に表しているのが、「群衆がかわいそうだ」という言葉です。この言葉は、五千人養いの記事の中には出てきません。ここに、この四千人養いの物語がどういう視点から語られているのかが示されています。

 「群衆がかわいそうだ!」これは直訳すると、「私は群衆を憐れむ」という言葉です。イエス様は、ご自分の周りに集まって来た人々を、深い憐れみをもって見つめておられました。この「憐れむ」という言葉は、ただ気の毒に思うとか、かわいそうに思う、というよりも、ずっと強い意味をもった言葉です。この言葉は「内臓」という言葉から派生してきた言葉で、「内臓が揺り動かされるような憐れみ、同情」を意味します。日本語にも、内蔵の腸がちぎれると書いて「断腸の思い」という言葉がありますが、どちらかと言えば、それに近い言葉と言えるでしょう。つまり、自分自身の腸が揺り動かされるような痛み、苦しみ、同情を言い現す言葉です。同情という言葉は、「同じ心になる」という意味ですが、私たちの同情は、なかなか相手の苦しみと同じ心になることは出来ません。しかしイエス様がここで覚えておられる同情、憐れみは、相手の苦しみが自分自身の苦しみとなり、自分が揺り動かされ、痛みを覚えるような同情です。イエス様は、この時、そのような思いで群衆の空腹を感じ取っておられました。それがこの「群衆がかわいそうだ」という言葉の意味です。七つのパンで四千人を満腹にしてくださった奇跡は、イエス様のそのような深い憐れみ、同情の現れでした。そして、このイエス様の深い憐れみの眼差しは、ただ人々の空腹だけに向けられていたのではありません。先程も見ましたように、あの山上の癒しの御業、足の不自由な人、目の見えない人、体の不自由な人、口の利けない人、その他多くの病人の苦しみや嘆きにも、このイエス様の深い憐れみの眼差しは向けられていたのです。つまり、あの山上の癒しの記事と、この四千人養いの物語とは密接につながっていたのでした。イエス様は、苦しんでいる者、色んな意味での空腹を覚えている者を深く憐れみ、真実の同情をもって関わって下さいました。彼らの苦しみを癒し、飢えを満たし、養い、慰め、力づけて下さったのです。そういう恵みが、この物語によって指し示されているのです。

 私たちは、イエス様の憐れみ、同情が、この十字架の苦しみと死にまで至る、ということを既に知っています。そのところから、もう一度、今日の箇所を見つめ直す時に、これが単なる奇跡物語ではなくて、多くの人々の様々な苦しみ、悩み、悲しみ、飢え渇きを、イエス様ご自身が、その身に引き受け、背負って下さったのだ、ということがよく見えてくると思います。そして、このイエス様の深い憐れみの眼差しは、今も変わらずに、私たち一人一人に注がれているのです。

 私たちの人生には、様々な苦しみや悲しみがあります。今日、医学の進歩によって人間の寿命が飛躍的に延びてきたために、高齢化の問題が極めて深刻な問題になってきました。誰もが元気に老いていき、ある日突然、天国に行けるのであれば、こんなに幸いなことはないでしょう。けれども多くの場合そうはいきません。次第に老化が進み、体力や知能が少しずつ衰えていき、徐々に体が思うように動かなくなっていきます。そして、やがて家族だけでは面倒が見切れなくなり、介護を必要とするようになっていくのです。それによって、介護を受ける側にも、また介護する側にも、大きな負担がのしかかっていきます。また学校や職場や家庭、地域社会においても、私たちは様々な苦しみや悲しみを経験します。特に人間関係のこじれが原因の場合は複雑かつ深刻であり、なかなか人には分かってもらえないことが多いのではないかと思います。でも大丈夫です。イエス様は、深い憐れみと同情をもって私たちの傍らに立ち、私たちの苦しみや悲しみを、その根本から癒してくださいます。

 知的ハンディを負った人々の牧者として働かれたヘンリー・ナウエンというカトリックの司祭が、こういう有名な言葉を残しています。「人を本当に癒すのは、強い人ではなく、自分も傷を知っている人です。」(「傷ついた癒やし人」から)

 本当にその通りだと思います。将にイエス様は、私たちを癒すために、私たちと同じ罪人の一人に数えられ、私たちが苦難の中で苦しむ以上に苦しみ、私たちの罪を一手に担って死んで下さいました。だからこそ私たちの痛みを本当に知り、親身になって寄り添うことがおできになるのです。しかも、ただ同じところに立ち、苦しみを共にして下さるだけではなくて、十字架の死に打ち勝ち、甦って下さったお方として、その傷を完全に癒すことの出来るお方として、私たちのところに来て下さったのです。そのお方が、今、私たちと共にいて下さいます。「あなたの痛みは知っている。苦しみは知っている。悲しみは知っている。あなたが今くじけそうになっている弱さも知っている。大丈夫。私があなたの弱さや破れや失敗、罪や背きを全部十字架の上で担った。悲しみや苦しみや痛みの背後にある神の怒りと呪いを全部私が担った。もうあなたには神の怒りや呪いは向けられない。あなたも立ち直れる。安心して行きなさい!」このように主は、傷ついた私たちを優しく励まして下さるのです。何という幸いでしょうか。

 このイエス様の十字架の恵みによって癒されながら、私たちも今日の箇所に登場する人々と同じように、イエス様を私たちに遣わして下さった父なる神様を心から誉め讃え、賛美したいと思います。

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