あなたの信仰は大きい
- 日付
- 説教
- 吉田謙 牧師
26 イエスが、『子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない』とお答えになると、27 女は言った。『主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。』28 そこで、イエスはお答えになった。『婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。』そのとき、娘の病気はいやされた。
マタイによる福音書 15章21節-28節
千里摂理教会の日曜礼拝は10時30分から始まります。この礼拝は誰でも参加できます。クリスチャンでなくとも構いません。不安な方は一度教会にお問い合わせください。
ホームページからでしたらお問い合わせフォームを。お電話なら06-6834-4257まで。お電話の場合、一言「ホームページを見たのですが」とお伝えくださると、話が伝わりやすくなります。
イエス様は、異邦人の地で、一人の女性と出会いました。彼女の娘は、悪霊にとりつかれて苦しんでいました。どんな医者も祈祷師も、娘を癒すことが出来なかったのです。彼女はその苦しみを抱えながら、その救いをイエス様に求めたのです。ところがイエス様は、「子供たちのパンを小犬にやるわけにはいかない」と彼女の願いをきっぱりと拒絶なさいました。しかも彼女はイエス様に犬呼ばわりされてしまったのです。もし、これが私たちだったとしたら、どうでしょうか。「犬とはいったいどういうことか。馬鹿にするにも程がある。金輪際、あなたになんか頼むものか!」と怒りがこみ上げてくると思います。そして、そうなっても不思議ではないことを、この時、イエス様は語られたのです。ところが彼女は、憤慨して席を立つどころか、「主よ、ごもっともです」と言ったのでした。これは、直訳すると「そうです、主よ」という言葉です。彼女は、「子供たちのパンを小犬にやるわけにはいかない」というイエス様のお言葉を、「そうです、主よ」と肯定したのでした。つまり、自分は子供ではなくて犬です、と認めたのです。要するにこれは、「自分はイエス様の救いに当然あずかれるような者ではない」ということを彼女は認めている、ということです。ここに、彼女の言葉を理解するための鍵があります。彼女は、本来、自分がイエス様の救いの恵みにあずかることなど出来ない存在であることを知っていました。そんなことを求めることすらもおこがましい、とはっきりと自覚していたのです。その上で彼女は、なおも諦めることなくイエス様に救いを求め続けることが出来たのです。
「イエス様、その通りです。私は小犬のような者でしかありません。でもイエス様、小犬は主人が投げてくれるパン屑をいただき、その余りものによって養われていくのです。私もそれと同じように、イエス様が、イスラエルの民にお与えになる救いのおこぼれにあずかりたいです。あなたは、そのことすら拒まれるお方ではないと私は信じます!」このように彼女は言ったのです。
では、なぜ彼女はそこまで言うことが出来たのでしょうか。それは目の前にいるお方が、イエス様だったからです。おそらく彼女は、イエス様がどういうお方であるかという噂を、羨ましい思いをもって聞いていたのではないかと思います。イスラエルの人たちは、徴税人や罪人と言われる町のならず者たち、あるいは重い皮膚病にかかっている人たちのことを、「神様から見捨てられた人たちだ!」と簡単に裁いていました。ところがイエス様は、そういう人たちを決してお見捨てにならなかったのです。罪人や汚(けが)れた者たちのところへ、ご自分の方から近づき、「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。・・・ わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」(マタイ9:12-13)と言われながら、彼らを滅びから救いへと招かれていったのでした。おそらく彼女は、こういうイエス様の噂を聞いていたのだと思います。イエス様を通して神様の憐れみがいかに豊かに現されてきたのかを、彼女は、つぶさに伝え聞いていたのです。だからこそ彼女は、わざわざイエス様のもとにやって来たのです。
そして彼女は、そういうイエス様の真実のお姿を知っていたからこそ、この一見、軽蔑の言葉に思えるようなイエス様のお言葉の中に、イエス様の温かい眼差しを見出すことが出来たのでした。イエス様は彼女のことを「小犬」と言われました。これは、家で飼われて可愛がられている小犬を言い表す時の言葉です。つまりイエス様は、彼女に向かって「お前は人間よりも一段低い犬なのだ」という軽蔑の言葉を語られたわけではなかったのです。彼女は、イエス様のこの「小犬」という言葉に励まされ、導かれて、「その小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです」と言うことが出来たのでした。つまり、彼女はこのイエス様の、一見冷たい拒絶と取れるようなお言葉の中に、恵みの御心を聴き取ることが出来たのです。
イエス様は、この彼女の言葉を聞いて「婦人よ、あなたの信仰は立派だ」と言われました。この「立派だ」と訳されている言葉は、文字通りには「大きい」という言葉です。「あなたの信仰は大きい」とイエス様は言われたのです。
さて、イエス様は、このカナンの女性に対して「あなたの願いどおりになるように」と言われました。その時に、彼女の娘は癒された、と言われているのです。徹底的に拒絶されているとしか思えなかった救いが、豊かに彼女に注がれました。しかし、この出来事は、彼女にとって救いであったと同時に、イエス様にとっても、ある意味、救いになったのではないかと思います。彼女の「大きな信仰」に触れ、イエス様ご自身も、疲れを癒されたのです。イエス様は、この後ガリラヤに戻り、再び精力的に恵みの御業を続けていかれます。そのことが、この後の29節以下に語られているのです。そして、その恵みの歩みは、私たちの全ての罪を背負い、十字架にかかって死んで下さるところにまで至ります。もうその時には、この恵みは、イスラエルの民だけに限定されるのではなくて、そこから豊かに溢れ出て、異邦人たち、全世界へと広がっていくのです。私たちは今、その全世界へと広がった恵みの中に置かれています。全く相応しくない、何の権利もない私たちが、イエス様の恵みの「おこぼれ」にあずかり、その「食卓から落ちるパン屑」によって養われているのです。しかも私たちは、このおこぼれが、どんなに大きな恵みであるかを、よく知っています。独り子を十字架につけてまで与えて下さった神様の恵みです。その恵みを神様がみすみす無駄になさるはずがありません。たとえ私たちの思いとは違っていたとしても、神様は私たちにとって、最も相応しい時に、最もふさわしい仕方で、最もふさわしいことをして下さるに違いない。この信仰に生きる時に私たちも、この女性と同じように、苦しみの中にあっても、なお希望をもってイエス様の恵みを、ただひたすら求め続けることが出来るのではないかと思います。