神の言葉を無にするな
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- 説教
- 吉田謙 牧師
1 そのころ、ファリサイ派の人々と律法学者たちが、エルサレムからイエスのもとへ来て言った。2 「なぜ、あなたの弟子たちは、昔の人の言い伝えを破るのですか。彼らは食事の前に手を洗いません。」3 そこで、イエスはお答えになった。「なぜ、あなたたちも自分の言い伝えのために、神の掟を破っているのか。・・・
6 こうして、あなたたちは、自分の言い伝えのために神の言葉を無にしている。」
マタイによる福音書 15章1節-20節
千里摂理教会の日曜礼拝は10時30分から始まります。この礼拝は誰でも参加できます。クリスチャンでなくとも構いません。不安な方は一度教会にお問い合わせください。
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今日の箇所には、ファリサイ派の人々と律法学者たちがイエス様を攻撃したこと、またそれに対してイエス様の方も、大変に厳しい言葉で彼らを批判し、彼らとイエス様との対立が決定的になったことが語られています。なぜ、このような対立が起こったのでしょうか。それは、ユダヤ教の指導者たちが、本来の律法の心を見失っていたからです。
ある時、イエス様は、「旧約聖書で神様が命じておられることを要約するならば、それは結局、神様の熱烈な愛に応えて、自分たちも全力で神様を愛し、隣人を愛することなのだ!」(マタイ22:37-40)と教えられました。本来、律法というのは、神様の豊かな愛から生み出されたものでした。律法の根底には、本来、この神様の無条件の愛が脈々と流れていたのです。それなのにファリサイ派の人々の心には、残念ながら、この一番肝心な律法の心が抜け落ちていたのです。
以前、伝道用パンフレットに、ある伝道者の証しが載っていました。その伝道用パンフレットには、その伝道者の祖母と母親が、どうやってイエス様を信じるようになったのかという経緯が書かれていました。その伝道者の祖父、おじいさんにあたる人は、非常に身勝手な人で、ある日、自分の家に妻以外の女性を連れ込み、ついには子供まで産ませたそうです。妻である婦人は、心に大きな傷を受け、悩みに悩み抜いた末に、とうとう離婚を決心し、中学生の娘二人を連れて家を出たと言います。二人いた娘の内、妹の方は、特に父親のことが大好きで、それだけに彼女は、その大好きな父親が急に変貌してしまったことに絶望し、やがて自ら命を絶ってしまいました。それ以来、その母親ともう一人の娘は、父親が連れてきた女性が憎くて憎くて仕方が無い、あまりにも憎しみが募りすぎて、ついには体調を崩してしまい、もうがりがりに痩せ細ってしまったそうです。そんなある日、彼らは救いを求めて、近所の教会の門をたたきました。二人は憎むことに疲れ果てて、辛くて辛くて仕方がなくて、もう藁にもすがるような思いで教会にやって来たのです。けれども、その教会で最初に聞いた言葉は、「右の頬を打たれたなら、左の頬を差し出しなさい!」「そのようにして、あなた方は復讐心を捨て、赦し合うように!」という御言葉でした。この御言葉を聞いた二人は、言いようのない憤りを覚えたと言います。「イエス・キリストは、人間の苦しみを全く分かっていない。綺麗ごとばかりを言っている。こんなひどい目にあって、どうして赦すことができると言うのか?!」と憤慨して家に帰ったそうです。しかし、家にいても何の解決にもなりませんから、またしばらくして二人は、教会の門をたたいたそうです。その時に二人は、イエス様が十字架の上で祈られた、あのお言葉を聞きました。「父よ、彼らをお赦し下さい。自分が何をしているのか知らないのです。」この言葉を聞いて、二人の目は開かれました。イエス様は決して口だけのお方ではなくて、実際にその通りに生きたお方であった。そういう愛をもって十字架の上で死んで下さった。そのことに目が開かれたのでした。その時から、この二人は、激しい憎しみから少しずつ自由になっていきました。憎むことしか出来なかった生活から、人を愛する思いが与えられ、生きる喜びが回復していった、と言うのです。これが、ある伝道者の祖母と母親の証しの物語です。
また、この伝道者の先生は、自分の子供の頃の思い出として、こういうことも書いておられました。中学生の頃、一年に二度ぐらい、祖母が寝ている時に、いきなり、もの凄い唸り声を上げるのだそうです。そして慌てて祖母を揺り起こすと、「またあの夢を見ていた!」と決まって言うのだそうです。やっぱり、心の傷が完全に癒えたわけではなくて、夢の中では時々は思い出すのです。一年に二度ぐらいは、もの凄い唸り声をあげるほどに、やはり心の中には深い深い傷が残っていたのでした。けれども、翌朝になると、祖母はまるで何事もなかったかのように台所に立っていて、鼻歌で讃美歌を歌いながら味噌汁を作っていた、と言うのです。
信仰というのは、そんなにいつもいつも模範通りにいくわけではありません。イエス様を信じて、「昔の恨みは綺麗サッパリ忘れました!」と言っても、まだ一年に二度ぐらいはもの凄い唸り声を上げなければならない、夢の中で激しく憤らなければならない、という具合に、心の傷が完全に癒えたわけではないのです。しかし、イエス様の恵みは、そういう残った傷がありながらも、決してそれを廃除するのではなくて、それでも、なお全てを包み込んで下さるような懐の広い恵みなのです。そのようなイエス様の大きな大きな愛に包まれ、イエス様としっかりと結ばれながら歩み続けていく時に、たとえ模範通りに恨みが全部消えなくても、そこから少しずつ清められていくのだと思います。
「復讐してはならない!」この戒めを、ただ律法主義的に、愛のない冷たい戒めとして受けとめていたならば、もうこの伝道者の祖母には立ち上がる力など湧いてこなかったでしょう。どうしても復讐心を抑えることが出来ず、何度も失敗する自分を、ただただ責め続けるしかなかった。あるいは、もう諦めて生きるしかなかったと思います。しかし、イエス様と出会い、あるがままの自分を受け入れ、愛して下さる、このイエス様の愛を知り、このイエス様の愛で心が満たされた時に、この伝道者の祖母は決して強いられてではなくて、少しずつ自然とその復讐心から解き放たれていったのです。その決め手は、やはりイエス・キリストの十字架の愛でした。
神の言葉を無にしてはなりません。イエス様の十字架の赦しのもとで、決して誤魔化すのではなくて、自分の内側にある罪をしっかりと見据えていきましょう。そうやって主の十字架の赦しのもとで、失敗と悔い改めを繰り返していく中で、私たちは少しずつ清められていきます。そして、やがてはイエス様そっくりの人間に造り変えられていくのです。
福音の導き手にとって大切なのは、そういう打ち砕かれた心です。失敗があってもいいんです。欠点があってもいいんです。自分の失敗や欠点や弱さを知り、悔い改めて立ち返るならば、それは何も問題ではありません。いや、むしろ一杯失敗を繰り返し、自分の弱さを痛感している人間だからこそ、人の弱さを思いやることが出来るのではないかと思います。また、その弱さを包み込んで下さる神様の本当の恵みを知っている者だからこそ、神様の本当の素晴らしさを喜んで証しすることが出来るのです。