五つのパンと二匹の魚
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- 説教
- 吉田謙 牧師
15 夕暮れになったので、弟子たちがイエスのそばに来て言った。「ここは人里離れた所で、もう時間もたちました。群衆を解散させてください。そうすれば、自分で村へ食べ物を買いに行くでしょう。」 イエスは言われた。「行かせることはない。あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい。」17 弟子たちは言った。「ここにはパン五つと魚二匹しかありません。」18 イエスは、「それをここに持って来なさい」と言い、19 群衆には草の上に座るようにお命じになった。そして、五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて弟子たちにお渡しになった。弟子たちはそのパンを群衆に与えた。20 すべての人が食べて満腹した。そして、残ったパンの屑を集めると、十二の籠いっぱいになった。
マタイによる福音書 14章13節-21節
千里摂理教会の日曜礼拝は10時30分から始まります。この礼拝は誰でも参加できます。クリスチャンでなくとも構いません。不安な方は一度教会にお問い合わせください。
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イエス様は、弟子たちが懸命にかき集めたその五つのパンと二匹の魚をご覧になり、「こんなんじゃ役に立たない!」とは言われませんでした。むしろ、イエス様は「それをここに持ってきなさい!」と言われたのです。そして、イエス様がそのパンと魚をとって、天を仰いで賛美の祈りをささげ、裂いて弟子たちに配らせたところ、なんと人々はそれを食べて満腹したのでした。残ったパン屑を集めると十二の籠一杯になった、と言われていますから、これは人々がイエス様の話に感動し、お腹はすいていたけれど、満ち足りていた、ということでは決してありません。本当にたらふく食べて満腹することが出来たのです。これが5千人養いの奇跡物語です。
これは突拍子もない奇跡物語のように思えますが、よくよく考えてみると、私たちも、しばしば、これとよく似た経験をしたことがあるのではないでしょうか。あれが足りない。これが足りない。人材も不足している。賜物も少ない。これでいったい何が出来るというのか。確かにその通りでしょう。けれども、そこで私たちが忘れてはならないことは、教会の中心にはイエス・キリストがおられるということです。そもそも教会とは、イエス・キリストが教会の頭として、そこに臨在しておられる場所です。初代教会も、同じ欠乏と困窮を見つめていました。しかし彼らは同時に、将にその欠乏と困窮のただ中にあって、そこにイエス・キリストが共にいて下さることを見つめることが出来たのです。そして主が共にいて下さるならば、この欠乏はもはや欠乏ではない。この困窮はもはや困窮ではない、と言い切ることが出来たのでした。
この時の弟子たちの思いからすれば、五つのパンと二匹の魚など、物の数にも入らなかったでしょう。何の役にも立たないと思った。けれども、イエス様がそれを見た時に、それで十分でした。不足はあくまでも不足です。困窮はあくまでも困窮でしかありません。しかしその不足や困窮を、満ち溢れるほどの祝福に変えることの出来るお方がいらっしゃる。そのことを信じることが出来るかどうかの差は大きいと思います。あなたは、この時の弟子たちのように現状を見つめ、落胆し、諦めるでしょうか。それともその不足と困窮のただ中にあって、それを祝福に変えてしまわれる主の働きを見つめることが出来るでしょうか。これは教会の状況や働きだけではなくて、信仰者一人一人の賜物や働き、抱えている状況や問題、労苦など、全てのことに言えるのではないかと思います。
90年程前に、グラヂス・アイルワードという女性が、中国で宣教師として働いていました。当時、中国は大変に混乱した時代で、内戦と外国軍の進攻によって、民間人にも命の危険が迫っていました。このアイルワード宣教師は孤児院の院長でもありましたから、自分に託された百人の孤児を守るために、険しい山々を越えて避難所まで彼らを誘導しなければなりませんでした。その厳しい旅の中で、彼女は何日も眠れない夜を過ごし、ついには精神的にも、肉体的にも疲れ果ててしまったのです。避難所まではまだまだ遠い。自分も子供たちも、もう限界である、そういう絶望的な状況の中にあって、彼女はついに精根尽きてしまったのでした。けれども、そんな時に、ある13歳の少女が彼女に向かって、モーセとその民がエジプトから逃れた聖書の物語を語って聞かせたそうです。その話を聞いた彼女は、ぽつりとこう言いました。「私はモーセではないから、もうこれ以上は無理なの。ごめんね。」すると、その少女はこう言って彼女を励ましたそうです。「勿論、先生はモーセではないけれど、でもあの時、モーセとその民を導いた神様は、今でも同じ神様ではないですか。今でも私たちを守り導いて下さる神様ではないですか?!」と。この言葉を聞いて、彼女ははっと気づきました。私は弱り果てているけれど、神様は弱り果てていない。神様は、あのモーセとその民を導かれた時と同じように、私たちの神様でいて下さる。たとえ私が弱り果てていたとしても、この神様が私たちを導いて下さるに違いない、このことに気づかされた彼女は、もう一度、立ち上がることが出来たのです。そして、ついに彼女は険しい山々を越えて、子供たちを全員、安全な所まで送り届けることが出来たのでした。
この宣教師が置かれていた状況は、将に五つのパンと二匹の魚でしかなかったと思います。それ以上でもそれ以下でもなかった。五つのパンと二匹の魚では、どうすることも出来なかったのです。ですから、この五つのパンと二匹の魚だけを見つめていた時にはただ気をもむことしか出来ませんでした。けれども、この五つのパンと二匹の魚を、思い切って神様の前に差し出した時に、神様はそれを喜んで受け取って下さいました。そして、それを私たちが信じられないぐらいに大きく大きく用いて下さったのです。
確かに私たちが差し出すものは、いつでも不完全で、罪に汚れたパンにしか過ぎないでしょう。目の前の厳しい現実を見る時に、自分の持っているものなど何の役にも立たない、と諦めたくなることもあります。けれども、主は「それをここに持ってきなさい」と言われます。たとえそれがどんなにちっぽけなものであったとしても、あなたの精一杯の献身であるならば、主はそれを喜んで受け取って下さいます。そして、それを大いに用いて下さるのです。その時に余り物だけで十二の籠一杯になり、本当に満ち足りることが出来るのです。