日曜朝の礼拝「安心しなさい。わたしだ」

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安心しなさい。わたしだ

日付
説教
吉田謙 牧師
24 ところが、舟は既に陸から何スタディオンか離れており、逆風のために波に悩まされていた。25 夜が明けるころ、イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところに行かれた。26 弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、「幽霊だ」と言っておびえ、恐怖のあまり叫び声をあげた。27 イエスはすぐ彼らに話しかけられた。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」28 すると、ペトロが答えた。「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください。」29 イエスが「来なさい」と言われたので、ペトロは舟から降りて水の上を歩き、イエスの方へ進んだ。30 しかし、強い風に気がついて怖くなり、沈みかけたので、「主よ、助けてください」と叫んだ。31 イエスはすぐに手を伸ばして捕まえ、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言われた。
マタイによる福音書 14章22節-36節

 弟子たちの舟は一晩中、逆風に悩まされ、漕ぎ悩んでいました。それを見かねたイエス様は、夜明け頃、水の上を歩いて彼らの舟へと近づかれたのです。すると、そのイエス様のお姿を見た弟子たちは、「幽霊だ」とおびえ、恐怖のあまり叫び声をあげたのです。ところがイエス様は。そのように恐怖を覚え、あわてふためく弟子たちに対して、「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と語りかけて下さいました。「私だ」と一声かけただけで、安心を呼び起こすことが出来る。これは極限られた、本当に親しい間柄でしか起こり得ないことでしょう。けれども、この「私だ」という言葉は、ただそれだけの意味ではありません。この言葉には、もっと深い意味が込められていたのです。この「私だ」という言葉は、ギリシャ語では「エゴー エイミー」という言葉です。本来この「エゴー」という言葉は「私」という意味です。「エイミー」というのは「存在する」とか「ある」という意味です。英語が分かる方には、これはBe動詞であると言った方が分かりやすいのかもしれません。英語で言うならば「エゴー・エイミー」は「I am」にあたります。

 本来、旧約聖書はヘブライ語で書かれていたのですが、キリスト教がギリシャ世界に広まっていった時に、それがギリシャ語に翻訳されました。その時に、神様のお名前を表す言葉(出エジプト3:14)として、この「エゴー エイミー」という言葉が用いられたのです。つまり、嵐の海でイエス様が「私だ」、「エゴー エイミー」と言われたのは、ただ単に「幽霊などではない、わたしだ」ということだけを言い表していたのではありません。むしろ、この時イエス様は、まことの神様として、ご自身を弟子たちに明らかにされたのでした。

 逆風の中で行き悩み、不安と恐怖に捉えられている弟子たちのもとに、イエス様はまことの神様として、ご自身を現し、彼らを癒し、慰め、力づけて下さいました。この「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」という言葉は、本当はそういう深い意味をもった言葉なのです。

 このイエス様の御声を聞いたペトロが、それに素早く反応しました。彼は、イエス様の「わたしだ」という言葉に、素早く反応したのです。「わたしだ」というイエス様のお言葉に対して、「あなたでしたら」と言っています。つまり彼は、イエス様がまことの神としてご自身を現わされた時に、それに素早く応答したのです。信仰とは、そういうものでしょう。ペトロは「まことの神であられるイエス様が命令なさるなら、自分が水の上を歩いてイエス様のもとに行くことも可能でしょう」と言いました。ですから、ここでペトロが見つめているのは、自分の力ではなくて、イエス様の力、イエス様の権威です。イエス様がまことの神として、ご自身を現わされた時に、彼はすかさずそれに応答し、「あなたこそ、まことの神です!まことの神として私に命令して下さい。そうすれば私が水の上を歩くことも可能でしょう!」と言ったのでした。これは、イエス様に対するペトロの歴とした信仰告白です。

 イエス様は、このペトロの信仰告白に応えて、「来なさい」と言われました。ペトロは、そのイエス様のお言葉を頼りに、舟から降りて、水の上を歩き始めたのです。けれども、次の瞬間、「強い風に気がついて怖くなり、沈みかけた」と言われています。この箇所は、以前の口語訳聖書や最近、発行された聖書教会共同訳聖書では、「風を見て怖くなり、沈みかけた」と翻訳されています。どちらかと言うと、この翻訳の方が原文に近いと思います。ペトロは、風を見てしまったのです。風そのものは見えませんから、風によって逆巻く波を見てしまったのでしょう。つまり、イエス様を見つめていた目を逸らして、自分を取り巻く周囲の状況を見てしまったのです。すると急に恐ろしくなり、今まで水の上を歩いていたはずの足が沈み始めた。イエス様を一心に見つめ、御言葉に信頼し、「イエス様がお命じになるなら、水の上を歩くことも可能であろう」と信じていた時には、確かに水の上を歩くことが出来たのです。しかし、一端イエス様から目を逸らし、自分の弱さや自分を取り巻く困難な状況を見つめてしまった時に、「水の上を歩くことなど出来るはずがない!」と思ってしまった。その瞬間、その通りになってしまったのです。

 ペトロは沈みそうになり、「主よ、助けてください」と叫びました。これは文字通りに訳せば、「主よ、お救いください」という言葉です。これは、古代から教会が礼拝において何度も繰り返してきた祈りの言葉です。私たちも、信仰の歩みにおいて、しばしば人生の嵐に呑み込まれそうになり、このように叫ぶことがあるのではないでしょうか。「主よ、お救い下さい!」と。

 イエス様は、直ぐさま手を伸ばし、ペトロを捕まえ、救って下さいました。ペトロがイエス様の腕にしがみついたのではありません。イエス様がペトロをしっかりと捕まえて下さったのです。そして、その後でイエス様は、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか?!」とペトロを諭しました。

 イエス様は、「信仰の薄い者よ。お前なんか海の中に沈んでしまえ!」とは言われません。むしろ、小さな信仰しかもっていないペトロを、溺れそうになった時に、すぐさま捕らえ、救って下さったのです。ですから肝心なことは、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか?!」という言葉をもって、自らを責めることではありません。そうではなくて、本当に肝心なことは、代々の信仰者がしてきたように、そのままでは沈んでしまう自分の弱さを素直に認めて、「主よ、お救いください」と祈ることでしょう。イエス様は、いつもは目には見えなくても、必要な時にはあらゆる障害を乗り越えて、ちゃんと私たちのもとに来て下さいます。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない!」と、ご自身を現し、溺れそうな時には、すぐさま手を伸ばして、私たちを救い出して下さるのです。このイエス様の計り知ることの出来ない大きな愛と力を信じることが出来るならば、もう私たちは何も心配する必要はありません。大丈夫なのです。

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