日曜朝の礼拝「洗礼者ヨハネの死」

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洗礼者ヨハネの死

日付
説教
吉田謙 牧師
5 ヘロデはヨハネを殺そうと思っていたが、民衆を恐れた。人々がヨハネを預言者と思っていたからである。6 ところが、ヘロデの誕生日にヘロディアの娘が、皆の前で踊りをおどり、ヘロデを喜ばせた。7 それで彼は娘に、「願うものは何でもやろう」と誓って約束した。8 すると、娘は母親に唆されて、「洗礼者ヨハネの首を盆に載せて、この場でください」と言った。9 王は心を痛めたが、誓ったことではあるし、また客の手前、それを与えるように命じ、10 人を遣わして、牢の中でヨハネの首をはねさせた。11 その首は盆に載せて運ばれ、少女に渡り、少女はそれを母親に持って行った。マタイによる福音書 14章1節-12節

 わがまま娘と、その母親の憎しみによって、あるいは愚かな領主の面子のために死へと追いやられてしまった洗礼者ヨハネ。まるで宴会の余興のようにして、弄ばれながら殺されてしまった洗礼者ヨハネ。人の目から見れば犬死にのように見えたのかもしれません。確かに、これがただヘロデとその妻、そして洗礼者ヨハネだけの物語で完結していたならば、どこにも希望などありません。人間とはこういう醜い存在であり、現実は残酷なものなのだ、と言わざるを得ないと思います。けれども、物語はこれで終わったわけではないのです。これはイエス・キリストの物語の一部分にしか過ぎません。

 既にイエス・キリストの物語は始まっています。イエス・キリストは、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と福音を宣べ伝え始められました。「天の国は近づいた!」、「天の国」とは、「神様のご支配」を意味します。神様が王様として支配して下さる時が近づいた。いや、もうそこまで来ている。既に、あなた方はその一部を味わっているではないか、と主は言われます。しかし、神の国、神様のご支配は、まだ完成には至っていません。ですから、しばしば罪の現実が露わにされて、まるでサタンに支配されているかのように思えることもあるのです。今日の物語は、将にその典型でありましょう。けれども、既に13章のところで教えられたように、私たちにはそれが小さくて見えなくても、神様のご支配は、からし種のように着実に進展しています。洗礼者ヨハネは決して犬死にしたわけではありません。彼は、神の国の進展のために、自分に与えられた使命を忠実に果たし、その使命を終えて、天に召されていったのでした。

 神様のご計画に基づいて、私たちには十分な力が与えられ、それぞれの生涯が備えられています。人間的に見るならば、様々な不満もあることでしょう。けれども神様は、私たち一人一人に、その人だけの、掛け替えのない、特別仕立ての人生を用意していて下さいます。洗礼者ヨハネも、その神様のご計画の中で、自分の人生を精一杯生き抜いたのでした。

 私たちには、それぞれに、家庭において、職場において、また教会において、自分が目指すべき目標があると思います。そして、出来るなら、自分が生きている間に、ある程度の目処をつけ、成果を上げたいと思っています。確かに、あるものについては、その成果や結果を見ることが出来るでしょう。けれども、その全てを知ることは出来ません。結局、私たちは神の国が完成するまでは、全て納得のいく結果を見ることは出来ないのです。では、神の国の完成をこの目で見ることが出来なければ、私たちの働きは空しいのでしょうか。目標に達する前に、道半ばで死んでしまったならば、私たちの生涯は無に帰するのでしょうか。決してそうではありません。神の国は必ず完成します。私たちには、それがいつのことなのかは知らされていませんが、その神の国の完成のために、私たちの小さな働きが用いられるのです。私たちが全部のことをするのではありません。一人一人に期待されていることは、神様のご計画全体の中で見るならば、ほんの僅かなことでしょう。けれども、それでよいのです。その一人一人の僅かな働きが繋ぎ合わされて、やがて神の国が完成するのですから。

 洗礼者ヨハネの生涯も、この神の国の進展のために大いに用いられました。洗礼者ヨハネは、救い主の到来を告げ、その道備えをする先駆者としての尊い働きを、最後の最後まで、やり遂げたのです。「犬死ではなかったか?!」と思えるような、彼の殉教の死も、やがて実現するイエス・キリストの十字架の死を暗示するものでした。洗礼者ヨハネは、領主ヘロデの手にかかり、まるで弄ばれるかのようにして死んでいきました。憎しみと恨み、高ぶりと見栄、そして殺意、そのような人間の罪の現実に呑み込まれるようにして、洗礼者ヨハネは死んでいったのです。この洗礼者ヨハネの死に様の中に、イエス・キリストの十字架が見えないでしょうか。領主ヘロデは、イエス・キリストの噂を聞いて、「あれは洗礼者ヨハネだ。死者の中から生き返ったのだ」と言いました。ヘロデは、イエス様の教えと御業の中に、洗礼者ヨハネと同じ響きを感じ取ったのだと思います。イエス様も、この世の権力の前に、されるがままの状態で惨めな姿を露わにされました。そして、ボロボロになって、血まみれになって、十字架に張りつけにされたのです。しかしイエス様は、その十字架の究極の苦しみの中で、ご自分に敵対し、ついには十字架に追いやった人々に対して、「父よ。彼らをお赦し下さい。自分が何をしているのか知らないのです」と執り成し祈って下さいました。そうやって、憎しみや恨みや高ぶりや見栄や殺意をご自分が全部担い、神の怒りと呪いを一身に受けて、あの十字架の上で、私たちの身代わりとして死んで下さったのです。この一見、犬死にに見えるようなイエス・キリストの十字架の死によって、神の国は大きく進展していきました。神の独り子が、罪人の身代わりとして、十字架の上で、神の罰を一手に引き受けて死んで下さったのです。あの十字架の上で、私たちの罪が贖われ、私たちと神様との和解が実現したのでした。洗礼者ヨハネは、このイエス・キリストの十字架の歩みを支えるために、彼にしか出来ない尊い働きをしたのです。

 犬死にしたかのように思えた洗礼者ヨハネの生涯が、実は神の国の進展のために無くてはならないものであったように、私たちの人生も、神様のご計画の中で、それぞれに意義あるものとされています。人の目から見れば、回り道をしたり、迷ったり、つまずいたり、転んだりと、全く無駄な歩みをしているかのように思えるのかもしれません。けれども、本当はそうではないのです。たとえ回り道であっても、迷っても、つまずいても、転んでも、そのことにはちゃんと意味がある。それも神様のご計画の中にしっかりと組み込まれているのです。そうであるならば、たとえ今、目の前にある現実が、自分の思い描いていたような道ではなかったとしても、決して腐ることなく、その神様が備えて下さった一人一人の特別誂(あつら)えの道を、胸を張って精一杯生きていきたいと思います。

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