日曜朝の礼拝「主イエスにつまずく」

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主イエスにつまずく

日付
説教
吉田謙 牧師
57 イエスは、『預言者が敬われないのは、その故郷、家族の間だけである』と言い、58 人々が不信仰だったので、そこではあまり奇跡をなさらなかった。
マタイによる福音書 13章53節-58節

 イエス様は、ご自分の故郷に帰られ、故郷の人々と対面なさいました。そして、そこはイエス様にとって故郷というだけではなくて、そこにいる人々にとっても故郷なのです。自分が生まれ育った場所、つまり、隅々までよく知っている自分の本拠地です。彼らは、その自分の本拠地にイエス様を迎え入れました。そして、イエス様のことを、彼らのよく知っているその本拠地に属する者として理解しようとしたのです。自分がよく知っているというのは、自分の手の内にあり、自分が握りしめ、支配することが出来る、ということです。彼らは、そういう枠の中でイエス様のことを理解しようとしたのです。けれども、この時のイエス様のお姿は、そういう彼らの考える枠からは大きくはみ出していました。だから彼らは、つまずいてしまったのです。私たちもこれと同じような失敗を犯すことがあるのではないかと思います。自分が知り尽くしている土俵の上で、イエス様のことを理解しようとするのです。しかし、たとえどんなに知り尽くした町や家族や職場であっても、本当は私たちの手の内にあるのではありません。イエス様の手の内にあるのです。そのことを受けとめようともせずに、ただイエス様を自分の常識という小さな枠の中だけで理解しようとする時に、私たちも、あのナザレの人々と同じように、スケールの大きなイエス様に、結局はつまずいてしまうのだと思います。イエス様を信じるためには、まず自分の手の内にある世界、自分が知り尽くしている世界、人間の常識という枠から一歩外に出て、神様が御言葉と御業とによって示して下さる新しい世界へと旅立っていかなければなりません。そうでなければ、このイエス様を信じることは出来ないのです。

 今、この世界で起こっている出来事を、新聞やテレビの報道で見聞きする時に、「どうしてこんなことが起こるのか。理不尽ではないか。納得がいかない!」と思うことが、しばしばあると思います。しかし、もし神様が、私たち人間の理解できるような理屈の中だけで働いておられたとしたならば、どうでしょうか。今のこの世界は、いったいどうなっていたでしょう。おそらく、この世界はもうとっくの昔に消滅していたと思います。よく考えてみて下さい。自分の造った作品が自分のことを全く忘れ、全く無視し、勝手気ままに生きているのです。いやそれどころか敵対しています。もし私たちの造った作品がそういう態度をとったならば、私たちならどうするでしょうか。おそらく、即刻、その作品を処分するか、あるいは見捨ててしまうことでしょう。けれども、神様はそうはなさいませんでした。何度、裏切られても、見捨てることなく、赦し続け、招き続け、愛し続けて下さったのです。現に、今、私たち人間は、神様に対してとても失礼な態度を取っています。ある時には神様の存在を無視し、ある時には神様に文句を言い、またある時には神様に敵対しているのです。それにもかかわらず、なお私たち人間は滅びることなく、神様に生かされています。これは紛れもなく、人間の理屈では到底説明がつかない、とてつもなく大きな神様の愛、とてつもなく深い神様の憐れみの現れでありましょう。

 独り子である神 イエス・キリストが、この世に遣わされたことも、またこのイエス・キリストが十字架の上で、私たちの罪を全部背負って死んで下さったことも、すべてこの神様の深い憐れみから出たことでした。ですから、人間がいくら、ああでもない、こうでもないと、理屈だけでイエス様のことを理解しようとしても、所詮それは無理なことなのです。もう思い切って、イエス様のふところに飛び込んでいかなければならない。そうでなければ、このお方の素晴らしさは分からないと思います。勿論、聖書の知識を深め、教理を学ぶことも大切なことでしょう。「いわしの頭も信心から」と言われるように、ただ妄信的に信じるということに陥らないためにも、やはり聖書の知識を深め、教理を学ぶことは大切です。けれども、決してそれが信仰の中心ではありません。十字架に命を捨ててくださるほどに私たちのことを愛し抜いて下さるイエス様の十字架の愛は、いくら聖書の知識を深め、教理を学んでも、その素晴らしさを本当の意味で受けとめることは出来ないのです。何故ならば愛は理屈で受けとめるものではないからです。実際にその愛を素直に受けとめ、その愛の中で生きるのでなければ、その愛は分かるはずがありません。

 しかし、もし私たちが、思い切って、自分が知り尽くしているその世界から一歩外に出ることが出来たならば、もう私たちは、どこにいても、どんな状況の中にあったとしても、イエス・キリストを通して、神様の驚くべき恵みに触れることが出来ます。私たちは、必ずイエス様を敬い、信じ、その救いにあずかることが出来るのです。たとえ、どんなに大きな罪を犯したとしても、あるいはどんな深い悲しみにとらえられていたとしても、たとえ、にっちもさっちもいかないような困難に直面したとしても、そうなのです。そういう人間のあらゆる罪や悲しみや困難を突き抜けて、神様はイエス・キリストを通して、その罪の赦しと慰めを私たちに届けて下さいます。ただその恵みを受け取るためには、私たちは、自分の故郷から旅立たなければなりません。自分の手の内にあり、自分の自由になる、自分が知っている世界に留まっている内は、罪の赦しも、悲しみへの慰めも、困難を乗り越える力も、決して与えられない。イエス様につまずくほかはないのです。

 慣れ親しんだ自分の故郷を離れ、旅立つことは確かに不安なことでしょう。けれども、そこでは私たちの知っていることしか起こりません。今日の箇所でイエス様が、「ナザレの人々が不信仰だったので、そこではあまり奇跡をなさらなかった」と言われているのは、そういうことでしょう。自分の知っている世界に閉じこもるような不信仰の中では、人間の限界を越えたイエス様の恵みは発揮されません。けれども、私たちが自分の知っている世界から、勇気を出して、一歩信仰の世界に踏み出して行くならば、イエス様はそこで素晴らしい力を発揮して下さいます。きっと今まで知らなかったような、とてつもなく大きな神様の愛、十字架の恵みを、あなたにも届けて下さることでしょう。

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