隠された宝
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- 説教
- 吉田謙 牧師
47 また、天の国は次のようにたとえられる。網が湖に投げ降ろされ、いろいろな魚を集める。48 網がいっぱいになると、人々は岸に引き上げ、座って、良いものは器に入れ、悪いものは投げ捨てる。49 世の終わりにもそうなる。天使たちが来て、正しい人々の中にいる悪い者どもをより分け、50 燃え盛る炉の中に投げ込むのである。・・・ 52 だから、天の国のことを学んだ学者は皆、自分の倉から新しいものと古いものを取り出す一家の主人に似ている。
マタイによる福音書 13章44節-52節
千里摂理教会の日曜礼拝は10時30分から始まります。この礼拝は誰でも参加できます。クリスチャンでなくとも構いません。不安な方は一度教会にお問い合わせください。
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ここで言われている網というのは、地引網のような網でしょうか。色んな魚が、それこそ一網打尽にされ、岸に引き上げられてから、良い魚と悪い魚により分けられるのです。それは、49節で言われているように、この世の終わりの神様の裁きを意味しています。この世界は、既に、神様の大きな網の中に捕えられています。私たちを捕え、支配しておられるのは神様です。この網の中には色んな魚がいて、いったい誰の網なのかと戸惑うこともあるでしょう。けれども、この網は、決して悪魔の網ではなくて、神様の網なのです。私たちは神様のご支配のもとで生かされています。その神様のご支配は、独り子イエス・キリストの十字架の死による恵みのご支配です。ですから、たとえ今という時が真っ暗闇で、悪魔の網に捕らえられているかのように思えたとしても、本当はそうではないのです。神様はその暗闇の中にあっても、私たちを神様の網で捕らえていてくださいます。神様の恵みの御手をもって、しっかりと支えていて下さるのです。
今はまだ神様のご支配は隠されていて、時には罪の力が支配しているかのように思えるのかもしれません。しかし、やがて世の終わりには、神の国が完成し、その罪の力が跡形もなく消し去られる時がやって来ます。その時には、私たちの涙はことごとく拭い取られ、もはや死もなく、悲しみも嘆きも労苦もない、と聖書は教えています(ヨハネの黙示録21:3-4)。私たちクリスチャンは、そのことをかたく信じ、今のこの世を忍耐と希望をもって生きていくのです。
イエス様は、この天の国の秘密を悟った信仰者のことを、「天の国のことを学んだ学者である」と言われました。私たち信仰者は、天の国についての学者になるのです。では学者になると何が出来るのでしょうか。「自分の倉から新しいものと古いものを取り出す」ことが出来るのです。学者は色んなことを知っています。その知識を自由自在に駆使しながら、起こり来る様々な疑問に答えたり、混乱した事態を整理することが出来るのです。信仰者は誰でも、天の国について、そういう学者になることが出来る、と言われているのです。「そんなこと、とんでもない!」と思われるのかもしれません。けれども、これは確かなことなのです。天の国とは、神様のご支配です。この世界は、神様が支配しておられる神様の網の中にあります。しかも、その支配は、独善的な恐ろしい支配ではなくて、独り子イエス・キリストをも与え尽くして下さるような恵みのご支配です。そのことをはっきりと信じ、知っている信仰者は、それぞれの人生に起こり来る様々な疑問や混乱の中で、あるいは悪の力が猛威を奮う現実の中で、そこに隠されている神の秩序を見つめることが出来ます。ですから、目に見える現実にただ右往左往するのではなくて、神様のご支配に信頼しつつ、全く自由に生きることが出来るのです。
天の国の学者は、どんなに小さな出来事であっても、神様のご支配のもとにあることを知っていますから、今までは、ただ「ラッキー」ですませていた事柄であっても、「ああ、神様は、こんなにも私のことを愛しておられるのか?!」と、日々の小さな出来事の中に神様の愛を見出すことができ、日々の生活が感謝で満ち溢れてきます。また、どんなに辛く、悲しい出来事が起こったとしても、それも私を愛しておられる神様のご支配のもとで起こっていることを知っていますから、今はその意味が分からなくても、その苦難や悲しみを通して、神様がきっと私に何かを語りかけようとしておられるに違いない。それはいったい何だろうという思いで、前向きに苦難に立ち向かうことが出来るのです。これが、天の国のことを学んだ学者の姿です。この学者になるためには、大学を出る必要などありません。あるいは本を沢山読んで物知りになる必要もない。ただ必要なのは、隠された宝を手に入れるために真剣に取り組み、献身することです。そして、もう一つ大切なことは、学者になるのは、威張って、ふんぞりかえるためではなく、天の国の秘密を人に伝え、教えるためである、ということです。
本来、私たちは良い魚ではありません。燃えさかる炉に投げ込まれても、何も文句が言えないような者たちです。けれども主なる神様は、そんな私たちを救うために、御子を私たちの身代わりとして、燃えさかる炉に投げ込んで下さったのです。それがあのイエス・キリストの十字架の出来事でした。もう私たちは、世の終わりの裁きを恐れる必要はありません。これが天の国の秘密です。神様は、このような仕方で、私たちを愛の御手をもって支配して下さるのです。
私は、どんな悩みを抱えている人であっても、教会に来て、このイエス・キリストの恵みのご支配を知り、それを受けとめることが出来れば、すべての悩み事は解決するのではないかと信じています。決してその人が望むような結果が得られるわけではありません。そうではなくて、イエス・キリストに出会い、その救いに与ったならば、私たちは、イエス・キリストの救いの恵みの中を歩むことが出来る。私たちがこれまで歩んで来た道のりと、今、置かれている状況、そしてこれから私たちが歩んで行こうとしている道を、御子を十字架に犠牲にしてまでも私たちを愛し抜いてくださる神様の深い憐れみのご支配のもとにあることとして、明るい希望の光のもとで受け取り直すことが出来るのです。その時に、自分を取り巻く状況の色が一変するのではないかと思います。重く暗い景色が、軽く明るい、喜びと希望に満ち溢れた穏やかな景色に、きっと変わっていくことでしょう。
私たちは、既に、この天の国の秘密を知った学者として、「ここに、こんなに素晴らしい宝が隠されていますよ」と、喜びをもって語っていきたいと思います。この宝は、決して独り占めするものではなくて、人と分かち合えば分かち合うほど、自分自身もより豊かにされていく宝だからです。