からし種とパン種のたとえ
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- 説教
- 吉田謙 牧師
31 イエスは、別のたとえを持ち出して、彼らに言われた。『天の国はからし種に似ている。人がこれを取って畑に蒔けば、32 どんな種よりも小さいのに、成長するとどの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て枝に巣を作るほどの木になる。』33 また、別のたとえをお話しになった。『天の国はパン種に似ている。女がこれを取って三サトンの粉に混ぜると、やがて全体が膨れる。
マタイによる福音書 13章31節-35節
千里摂理教会の日曜礼拝は10時30分から始まります。この礼拝は誰でも参加できます。クリスチャンでなくとも構いません。不安な方は一度教会にお問い合わせください。
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からし種、それは砂粒のように小さな種です。しかし、その砂粒のような種が成長すると、どの野菜よりも大きくなり、空の鳥が枝に巣を作るほどになる、と言うのです。またパン種とはパン生地を発酵させる酵母、いわゆるイースト菌のことです。パン種は粉全体の量と比べたならば、ほんの一握りにしか過ぎません。それがパン生地に混ぜ合わされ、こねられ、寝かせられていくうちに、生地全体が膨らんでいくのです。
イエス様が語られたこの二つの譬え話は、いずれも、「天の国はこれこれに似ている」という言い方で語り始められました。これは先週学んだ24節以下の「毒麦のたとえ」とほとんど同じです。この「天の国」というのは、先週もお話ししましたように、死んだ後に行く「天国」のことではありません。「天」というのは、このマタイによる福音書においては、「神様」の言い換えになっています。また「国」というのは、ある場所や領域を指すのではなくて、「支配」という意味です。ですから「天の国」とは、「神様のご支配」という意味なのです。神様のご支配が私たちとこの世界に確立する時に、私たちの救いが実現します。ですから「天の国はこのようなものだ」ということは、神様の救いとはこのようなものであり、このようにして実現していくのだ、ということでしょう。即ち、神様の救いは、からし種のように、あるいはパン種のようにして、私たちの上に実現していくのだ、と主は言われたのです。これはいったいどういうことでしょうか。
イエス様は、この譬え話を通して「神様のご支配、神様の救いは、やがて大きな木となり、世界全体に浸透していく!」ということを語られたのでしょうか。確かに、そういう意味もあります。けれども、ここでの強調点は、もっと別の点にあります。この譬え話を通してイエス様が一番伝えたかったことは、神様のご支配、神様の救いは、あの小さな、目立たない「からし種」から始まる、ということです。
またそれは、ただ最初は小さい、というだけのことではありません。そこでもう一つの「パン種のたとえ」が生きてきます。パン種は粉に混ぜ合わされると、見えなくなってしまいます。どこにあるのか分からなくなり、隠されてしまうのです。33節には「女がこれを取って三サトンの粉に混ぜると」とあります。この「混ぜる」という言葉は、「隠す」という意味の言葉です。パン種は生地の中に隠され、その隠されたものが全体を膨らませていくのです。天の国、神様のご支配も、このように隠されています。「ここにある、あそこにある」というように見えるものではありません。そういう意味では、「そんなものが本当にあるのか?!」と疑おうと思えばいくらでも疑うことも出来るでしょう。けれども、今は隠されているその神様のご支配が力を発揮し、やがて私たちを、またこの世界を、着実に変えていきます。天の国はそのような底知れない力を秘めているのだと、この譬え話は伝えようとしているのです。
今日の「からし種とパン種のたとえ」は、先週学んだ「毒麦のたとえ」と、そのたとえの意味を解説している記事との間に挿入されています。では、この「毒麦のたとえ」を語っている途中に、この「からし種とパン種のたとえ」を挿入したマタイの意図とは、いったいどこにあったのでしょうか。主は言われました。「天の国はからし種に似ている」、あるいは「パン種に似ている」と。おそらくマタイが属していた教会は、あの「毒麦のたとえ」が語っていたように、いつの間にか異物が紛れ込んでいるという実態を痛切に感じ取っていたのではないかと思います。具体的に、マタイの教会の中に、どういう混乱があったのかはよく分かりません。しかし、パウロの手紙を読むと、初代教会の中で、一般的にどういう混乱があったのかは、だいたい伺い知ることが出来ます。厳しい迫害の中にあって、簡単に信仰を捨ててしまう人が後を絶たなかったのかもしれません。間違った教えによって教会を混乱させる人々が次々に現れたのかもしれません。あるいはユダヤ人と異邦人との間に分裂が起こり、いがみ合っていたのかもしれない。マタイは、そういう混乱の中にある教会に対して、このイエス様の「からし種とパン種のたとえ」を伝え、教会を励まそうとしたのでした。
今、私たちを取り巻く環境も、決して安心できるものではないと思います。目の前にある現実を見つめる時に、これからいったいどうなってしまうのだろうかと、不安にさいなまれることもあります。神様のご支配は、なおパン種のように隠されているのです。まだ、からし種のように小さく、私たちの目には、なかなか鮮やかに見えてこないのかもしれません。けれども、神様は、その罪の現実の中にあっても、私たちと共にいて、私たちを御手の中で守り導いてくださいます。キリストの十字架によって、その罪の現実を打ち破り、必ずやその解決を与えて下さるはずです。今、置かれている状況を、ただ現状分析することによって受けとめるのではなくて、信仰の目をもって受けとめること、ここに私たちの信仰の急所があります。
あるベテラン牧師が「信仰者として生きることは、楽観的なことだ!」とある書物の中で述べておられました。その先生は、毒麦の譬えが語るような罪の現実の中に生き続け、そこから逃げることなく伝道し続けた方です。長い牧会生活の中で、自分自身が心を病んでしまう経験もなさいました。しかし、大胆にも「信仰者は楽観的だ!」と言うことが出来たのです。これは、どんなに絶望的に思えるような出来事の中にも、必ず神様のご支配があり、その場所にもイエス様が共にいてくださる、イエス様が共に戦い、共に苦しみ、共に悲しみ、共に涙し、そこでイエス様がしっかりと支えてくださることを、この先生ご自身が実際に味わっていたからこそ、語ることが出来た言葉ではないかと私は思います。そこには、悲観主義が入り込む余地など全くありません。キリストにある突き抜けた明るさがあります。