日曜朝の礼拝「毒麦のたとえ」

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毒麦のたとえ

日付
説教
吉田謙 牧師
29 いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。30 刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。刈り入れの時、『まず毒麦を集め、焼くために束にし、麦の方は集めて倉に入れなさい』と、刈り取る者に言いつけよう。
マタイによる福音書 13章24節-30節

今日の「毒麦のたとえ」も、ある人が畑に種を蒔いた、という譬え話です。その種は「良い麦」の種でした。ところが人々が眠っている間に、敵が来て、同じ畑に毒麦の種を蒔いてしまい、そのために一つの畑に良い麦と毒麦とが共存することになってしまった、と言うのです。この譬え話では、麦の違いが人間の違いとして言い表されています。また畑は教会、敵とは悪魔と考えればよいでしょう。主人に仕える者たちは、「では行って毒麦を抜き集めておきましょうか」と言いました。彼らは、教会の中に毒麦が混在してはならない、と考えたのでした。この仕える者たちに対する主人の答えが29節の言葉になっています。この主人の言葉が、この譬え話を理解する上で鍵となる中心的な言葉です。

 この毒麦は、「ジザニア」という毒草であったと言われています。葉も茎も小麦とそっくりなのですが、その実を食べると、めまいを起こすほどに毒性の強いものだそうです。このジザニアという毒麦は、蒔いた後しばらくは小麦とほとんど見分けがつきません。ですから、「これは毒麦だ」と思い、抜いたものが、実は良い麦だったりすることがよくあったそうです。これは、今、私たちが、自分勝手な思いや感覚で、「この人は毒麦だ」と簡単に決めつけてしまうことへの忠告ではないかと思います。私たちは、良い麦と毒麦の区別をつけようとする時に、往々にして間違ってしまうことがあります。つまり私たちが、この人は毒麦だと思う人が、実は良い麦であった、ということがしばしば起こるのです。正しい裁きは、神様にしかできません。ですから、裁きは全て神様にお委ねし、私たちが裁くことは差し控えるべきなのです。これが「刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい」ということの意味です。

 この主人の言葉には、確かに、今、確認しましたように、「私たち人間の判断は不確かなので、自分勝手な判断で毒麦を抜いてはならない」という意味が込められています。しかし、ただそれだけではありません。ここにはもっと大切なメッセージが込められているのです。それは、神様が、ご自分の畑に育つ麦の一本一本を、特別に大切に思っておられる、ということです。たとえ良い麦の一本であっても間違って抜いてしまうことがあってはならない、と神様は気づかっておられます。そのためなら、沢山の毒麦を一緒に育てることになったとしてもかまわない、と神様は決意なさったのでした。ここには、一本の麦に対する神様の深い慈しみの心が現れています。合理的に考えるならば、良い麦の一本や二本は犠牲にしても、毒麦を抜き取ってしまった方が、残りの良い麦にも栄養分が沢山行き届き、有利であることは明らかです。実際の農夫たちは、全体の収穫量のことを考え、多少、麦が無駄になったとしても毒麦を引っこ抜いたそうです。世間一般では、「集団の利益」のために「多少の犠牲はやむをえない」と、弱い人や変わり者はどんどん切り捨てられていきます。しかし神様は、「たとえ一本の麦であっても、決して良い麦を犠牲にしてはならない。むしろ、その一本を守るためには、敢えて毒麦をも生かそう」と言われるのです。「毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない」という、この主人の言葉には、そのような神様の深い慈しみの心が込められているのです。

 そうであるならば、私たちがこの譬え話から聞きとるべきことは、自分が良い麦か毒麦かが分からないという不安ではないはずです。神様は、良い麦か毒麦か、見分けがつかないようなこの私を、良い麦として、守り、生かし、救いにあずからせようと、深い慈しみをもって見守っていて下さいます。これこそが私たちがこの譬え話から読み取るべきメッセージでありましょう。従って、この譬え話は、人間には神様によって蒔かれた良い麦と、悪魔によって蒔かれた毒麦の二種類があって、今はその見分けがつかないけれど、世の終わりにはそれが明らかになり、良い麦である者だけが救われる、ということを語ろうとしているのではありません。私たちは皆、神様によって命が与えられ、この世に生かされている者たちであり、神様が蒔いて下さった良い麦なのです。決して悪魔によって蒔かれた毒麦などではありません。しかし、そんな私たちが、造り主なる神様のことを忘れ、まるで自分が主人になったかのように生きてしまうことがあります。自分の主張を通そうと躍起になり、そのことによって互いに傷つけ合い、そんな中である者たちは信仰を捨て、教会から離れてしまうことがあるのです。そうやって私たちは、いつの間にか悪魔が蒔いた毒麦のようになってしまいます。ところが神様は、そんな落ちぶれた私たちが、悔い改めて神様のもとに立ち返り、もとの良い麦になることを、深い慈しみと忍耐をもって待っていて下さいます。そうやって私たちは、少しずつ毒麦から良い麦へと変えられていくのです。

 実際の麦と毒麦なら、そんなことは起こらないでしょう。しかし人間にはそれが起こるのです。毒麦であった者が良い麦へと変えられていくために、神様は、御子を十字架に送り、途轍もなく大きな犠牲を払ってくださいました。そのような神様の大いなる忍耐と慈しみによって、私たちは良い麦へと変えられていくのです。いや、もっと正確に言うならば、もともと私たちは神様が蒔いて下さった良い麦なのです。しかし、神様から離れることによって、私たちはまるで毒麦であるかのように落ちぶれてしまいます。けれども、そのような落ちぶれた私たちを、神様は決してお見捨てになりません。イエス・キリストの十字架の贖いによってその罪をことごとく赦し、もともとの良い麦へと少しずつ造り替えて下さるのです。

 先週の「種を蒔く人の譬え話」においても、もともと道端であったり、石だらけの土地であったり、茨に塞がれているような私たちの心に、神様が常に御言葉の種を蒔き続けて下さり、それによって私たちの心が次第に耕され、石が取り除かれ、茨が抜き取られていき、やがて私たちの心に次第に御言葉がしっかりと根付き、豊かな実りが与えられていくことを学びました。それと同じことが、この毒麦の譬え話においても教えられているのです。

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