種蒔く人のたとえ
- 日付
- 説教
- 吉田謙 牧師
18 だから、種を蒔く人のたとえを聞きなさい。19 だれでも御国の言葉を聞いて悟らなければ、悪い者が来て、心の中に蒔かれたものを奪い取る。道端に蒔かれたものとは、こういう人である。20 石だらけの所に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて、すぐ喜んで受け入れるが、21 自分には根がないので、しばらくは続いても、御言葉のために艱難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう人である。22 茨の中に蒔かれたものとは、御言葉を聞くが、世の思い煩いや富の誘惑が御言葉を覆いふさいで、実らない人である。23 良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて悟る人であり、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結ぶのである。マタイによる福音書 13章1節-23
千里摂理教会の日曜礼拝は10時30分から始まります。この礼拝は誰でも参加できます。クリスチャンでなくとも構いません。不安な方は一度教会にお問い合わせください。
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最初の三つのケース、道端や石だらけの地や茨の間は、どれをとってみても私たちの姿です。これを読んで身につまされ、これは自分の姿なのだと思う、この判断はやはり正しいのです。けれども、そこで私たちがしっかりと聞き取らなければならないことは、そのような道端であったり、石だらけの土地であったり、茨に塞がれているような私たちの心に、神様が常に御言葉の種を蒔き続けて下さる、ということです。神様は、「私は良い土地にしか種は蒔かない。おまえが良い土地になったなら種を蒔いてあげよう!」とは言われません。御言葉の種は、どんな土地にも蒔かれます。たとえその土地が、蒔いても蒔いてもすぐに鳥についばまれてしまうような道端であったとしても、私たちがそのような頑なな心であったとしても、神様は御言葉の種を私たちの心に蒔き続けて下さいます。またたとえ私たちが、表面的には御言葉を受け入れ、信仰の芽を出したとしても、まだ心の中には堅い石がゴロゴロしていて、御言葉が深く根を下ろすことが出来ず、そのために少しでも嫌なことや辛いことが起こると、簡単に信仰を諦めてしまうのです。神様は、そんな弱く、躓きやすい私たちであっても、諦めずに御言葉の種を蒔き続けて下さいます。また私たちが、人生の様々な思い煩いに捕えられ、あるいは様々な誘惑に目を奪われて、神様を忘れ、御言葉から目を背けてしまうような者であっても、その私たちにも神様は諦めずに御言葉の種を蒔き続けて下さるのです。
この譬え話で神様は、「お前はどの土地か!」と第三者のように冷たい目で私たちを眺めておられるのではありません。神様ご自身が、汗を流し、一所懸命に、御言葉の種を蒔き続けておられます。その神様の熱心な、情熱溢れる種まきの結果、私たちは自分に蒔かれている御言葉に気づくようになるのです。神様が他でもない私に語りかけて下さることに気づき、それに耳を傾けるようになる。そのようにして私たちの信仰は小さな芽を出すのです。けれども、残念ながらその芽は、しっかりと根づくことなく枯れてしまうことも多く、茨に遮られて伸び悩むことも多いのです。けれども神様は、決して諦めることなく、繰り返し、御言葉の種を蒔き続けて下さいます。それによって私たちの心は、次第に耕されていき、次第に石が取り除かれていく、次第に茨が抜き取られていくのです。そして、気づいた時には、私たちの心に御言葉がしっかりと根付き、豊かな実りが与えられていくのです。
「わたしは傷をもっている。でもその傷のところから、あなたの優しさがしみてくる。」
これは、あの有名な星野富弘さんの詩です。星野富弘さんは、かつて中学校の体育の教師でした。学校で、生徒たちの前で器械体操の模範を示していた時に、事故で首を折ってしまい、彼はそれ以来、首から下が動かなくなってしまったのです。それまでは体育の教師として、普通の人よりも何倍も身体を動かしていた人が、怪我をして以来、寝たきりになってしまい、食事でさえも介助なしにはできないような身体になってしまいました。その星野さんが筆を口にくわえて書いたのが、この詩です。
「わたしは傷をもっている。でもその傷のところから、あなたの優しさがしみてくる。」本当に心に染み入る詩ですね。
身体が元気で自信満々の時にも、星野さんは何度か友人から聖書の話を聞いたことがあったそうです。またその友人から聖書ももらっていたと言います。けれども、その時の星野さんは、そのクリスチャンの友人のことを「あの人はイエス・キリストの話さえしなければ、とてもいい人なんだがなぁ」と思っていたそうです。友人の語るイエス様の話が、とても迷惑に思えた、と言うのです。この時の星野さんの心は、まだ耕されていませんでした。心が頑なだったのです。けれども、星野さんが「身体が動かない」という大きな傷をもった時に、それまで自信満々で、頑丈だった星野さんの心にも、大きな傷が出来ました。そして、パックリ開いた傷口から、今まで見向きもしなかった聖書の言葉が、染み入るようにして入って来たのです。その御言葉の種は、みるみるうちに大きく成長し、神様の愛を沢山実らせました。
星野さんが、この神様の恵みに気づき、感謝することが出来るようになるまでに、いったいどれほどの御言葉の種が、虚しく蒔かれ、鳥についばまれていったことでしょう。同じように私たちが、この神様の恵みに気づき、感謝することが出来るようになるまでに、育たずに枯れてしまった種がどれほどあったことでしょう。茨(いばら)に塞がれて消えて無くなってしまった種がどれほどあったことでしょうか。神様はそのような犠牲を払ってまでも、私たちを導いて下さったのです。その神様の情熱と犠牲の頂点こそが、あの神の独り子イエス・キリストの十字架でありました。
今はまだ、私たちの心や愛する者たちの心は、頑なな道ばたであったり、根が張らない石地であったりするのかもしれません。あるいは、色んなものに心を奪われて、養分が吸い取られてしまう茨の地なのかもしれない。けれども、今日教えられたように、イエス様は、どんなに頑なで劣悪な土壌であっても、その私たちの罪を自らの十字架の贖いによって赦して下さりながら、決して諦めることなく、繰り返し語りかけて下さるのです。こうしてイエス様は、今も忍耐強く、私たちの心に、あるいは私たちの愛する者たちの心に、御言葉の種を蒔き続けて下さいます。そして、その頑なな心を少しずつ耕し、石を取り除き、茨(いばら)を抜き取り、よい地に変えて、やがては必ず百倍の実を実らせて下さるのです。そのことを信じ、様々な試練や誘惑と戦いながら、忍耐強く、希望をもって、それぞれの信仰生活を歩んでいきたいと思います。