日曜朝の礼拝「主イエスの家族」

日本キリスト改革派 吹田市千里の教会ホームページへ戻る

問い合わせ

主イエスの家族

日付
説教
吉田謙 牧師
49 そして、弟子たちの方を指して言われた。『見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。
50 だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である』。
マタイによる福音書 12章46節-50節

 イエス様の家族になるための秘訣とは、いったい何でしょうか。今日の箇所には、それは「まず神様の御心を行うことである」と言われています。しかし、ここで私たちは、よくよく注意しなければなりません。何故ならば、あのファリサイ派の人々も、実は「自分たちは神様の御心を行っている!」と確信していたからです。彼らは律法を熱心に学び、それを厳格に守って生活していました。「それが神様の御心を行うことなのだ!」と彼らは信じていたのです。このことからも分かるように、人は、神様の御心を行っていると思いつつも、実際には自分勝手な行動をしていることが多いのです。何故、そうなってしまうのでしょうか。それは、「これが神様の御心なのだ!」と自分で勝手に決めつけてしまうからです。私たちは、しばしば自分の思いや自分の考え、自分の基準を、神様の御心なのだと勘違いしていることがあります。そのことを主張することによって、ますますイエス様から遠ざかっていることに全く気づいていないのです。ですから私たちは、「神様の御心を行う」ということについて、もっと慎重にならなければなりません。そう言っている時にこそ、人間は最も大きな罪を犯してしまうことがあるからです。神様の名のもとに行われる戦争は、その最たるものと言えるでしょう。

 では、そういうことを防ぐにはどうすればよいのでしょうか。そのためにこそ私たちは、外に立つのではなくて、内に入らなければならないのです。それは、イエス様のもとに集い、その御言葉に聞く、ということです。イエス様は、ここで「神の御心を行う人が」と言われたのではなくて、「わたしの天の父の御心を行う人が」と言われました。神様は、イエス様の天の父であられます。神様を「わたしの天の父」と呼ぶことが出来るのは、本来、神の独り子であるイエス・キリストお一人だけでしょう。神の独り子であるイエス・キリストを通してこそ、私たちは神様の御心を知ることが出来るのです。ですから私たちは、このイエス様の御許にいつも集い、その御言葉にしっかりと耳を傾けなければなりません。しかも、出来るだけイエス様から距離を置かず、ピッタリと密着し、イエス様の語られることを聞き、なされる御業を見なければならない。そうでなければ私たちは、何が神様の御心なのか、何をすることが神様の御心にかなうことなのかが、すぐに見えなくなってしまうのです。

 この一週間の歩みを振り返る時に、私たちの歩みは、神様の御心を行う歩みだったでしょうか。むしろ、神様を悲しませることの方が多かったのではないかと思います。けれども、そうだからと言って、そこで「やっぱり自分は駄目な人間だ!」と、ただただ自分を責め続けることが神様の御心でしょうか。決してそうではありません。日曜日毎に、私たちがここに集い、教えられることは、人が赦してくれなくても、あるいは自分で自分が赦せなくても、イエス様はあなたのことを赦しておられる。私たちが心からその罪を悔いているならば、それらは全てイエス・キリストにあって赦されている、ということです。そういうことから言うならば、神様の御心とは、自分の罪を心から悔い改めて、イエス様の赦しをいただき、諦めずに、もう一度、新たな思いで立ち上がっていく、ということでありましょう。私たちは、日曜日毎に、この神様の御心を再確認し、神の家族としての喜びと平安を噛みしめながら、また新たな思いで、それぞれの働きの場へと出て行くのです。

 このようにイエス様の家族になる秘訣とは極々単純なことなのです。それはイエス様の側から離れないことです。ピッタリとイエス様に密着し、その語りかけを聞き続けることであります。

 しかも、それは私たちの力ですることではありません。49節のところに、イエス様は弟子たちの方を指して、「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる」と言われた、とあります。この「指して」という言葉は、ただ「指差して」ということではありません。前の口語訳聖書では、「弟子たちの方に手をさし伸べて」と翻訳されていました。また最近発行された聖書協会共同訳聖書でも、「弟子たちに手を差し伸べて」という翻訳に戻っています。この翻訳の方が原文のニュアンスをよく伝えていると思います。イエス様は弟子たちに手をさし伸べて、「ここにわたしの家族がいる」と言われたのです。この「手をさし伸べる」というのは、前の8章3節のところでは、イエス様が重い皮膚病にかかっている人に手をさし伸べ、その人に触れ、癒して下さった時の仕草でした。また少し後の14章31節のところでは、溺れそうになったペトロにイエス様が手をさし伸べて、助けて下さったことが語られています。つまり、手をさし伸べて下さるというのは、イエス様が守り、支えて下さる、ということなのです。そのようにしてイエス様は弟子たちの方に手をさし伸べながら、「ここに私の家族がいる」と言われました。つまり、イエス様の本当の家族というのは、自分の力でしっかりと御許にとどまり、御言葉を真剣に聞き続けている人々というよりも、イエス様ご自身がその人々に手を差し伸べ、その人を守り、支え、導き、育んで下さるのです。

 このことを、もっと正確に言い表すならば、これはキリストの霊、聖霊の御業なのだ、ということでしょう。ですから私たちは、このことについても決して肩に力を入れて頑張る必要はありません。ただ聖霊の御業に謙虚に信頼し、安心して従えばよいのです。では、私たちの側では何もすることがないのでしょうか。決してそうではありません。このことは聖霊の御業ですから、私たちは、聖霊が最も生き生きと働かれる場所に身を置いておく必要があります。これが私たちにできる唯一のことなのです。では、聖霊が最も生き生きと働かれる場所とは、いったいどこでしょうか。

 ウエストミンスター小教理問答 問88には、聖霊は、主(おも)に御言葉を通し、礼典を通し、祈りを通して働くのだ、と言われています。この御言葉と礼典と祈りが全て行われるところ、それはこの礼拝の場です。私たちに出来ることは、この礼拝の場に身を起き続けることなのです。時には信仰が萎えてしまうことがあるのかもしれません。色んな苦しみに出会い、もう礼拝どころではない、という時もあるのかもしれない。それでも、この礼拝の場に身を起き続けるのです。そうすれば、必ず聖霊がここぞという時に生き生きと働きかけて下さり、私たちのすさんだ心を癒し、心からの悔い改めへと導いて下さるはずです。

礼拝に来てみませんか?

千里摂理教会の日曜礼拝は10時30分から始まります。この礼拝は誰でも参加できます。クリスチャンでなくとも構いません。不安な方は一度教会にお問い合わせください。

ホームページからでしたらお問い合わせフォームを。お電話なら06-6834-4257まで。お電話の場合、一言「ホームページを見たのですが」とお伝えくださると、話が伝わりやすくなります。