よこしまで神に背いた時代
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- 説教
- 吉田謙 牧師
39 よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがるが、預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。
マタイによる福音書 12章38節-45節
千里摂理教会の日曜礼拝は10時30分から始まります。この礼拝は誰でも参加できます。クリスチャンでなくとも構いません。不安な方は一度教会にお問い合わせください。
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今日の箇所では、何人かの律法学者とファリサイ派の人々が、イエス様に向かって、「先生、しるしを見せてください」と言った、と言われています。「あなたが救い主であると主張するのなら、それがはっきりと分かるようなしるし、証拠を見せてほしい!」と言うのです。証拠もなしに信じることなど出来ない、これは誰もが抱く思いではないかと思います。しかし、イエス様はこの求めに対して、「よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがる」とイエス様は言われました。
この「よこしまで神に背いた」と訳されている言葉は、原文では「よじれている」という言葉と「姦淫を犯している」という言葉が組み合わされた言葉になっています。ただ「信仰がよじれている」というだけではなくて、姦淫の罪を犯し、夫婦の関係を裏切っているのだ、と言うのです。ただし、ここで言う「姦淫」とは、夫婦間で起こっている裏切り行為を指しているのではありません。かつてイスラエルの民が神様に背き、他の偶像の神々を拝むようになった時に、その神様に対する裏切りの行為を、旧約聖書では「姦淫の罪だ!」と指摘したのです。つまり、今の時代の人々も、神様に対して、他の神々を拝むような裏切りの行為をしているのではないか、と主は指摘なさったのでした。
そもそも信仰というのは、証拠を求める態度とは違うのではないかと思います。イエス・キリストへの信仰という時に、それはイエス・キリストというお方に対する人格的な信頼を言うはずです。この人格的信頼は、決して証拠を積み上げることで築きあげていくものではありません。交わりの中で築き上げていくものでしょう。聖書を読み、祈り、礼拝を捧げることを通して、イエス様からの語りかけを聞き、また私たちの方からも語りかけていく、そういう交わりの中で、私たちは少しずつイエス様との人格的な信頼関係を築き上げていきます。神様が私のことを途轍もなく大きな愛で愛し、十字架の愛で包み込んでいて下さることを、私たちは、その交わりの中で日ごとに味わっていくのです。そうやって信仰は少しずつ築き上げられていくのではないでしょうか。
例えば、友情を築き上げるのに、証拠を集めたり、あるいはその人の実力を試したり、能力や財産を調べ上げるようなことはしないと思います。どんなにその人の実力や能力や財産が証拠によって明らかになったとしても、それによって友情が芽生えるわけではありません。それは、友情が人格的な信頼関係に基づいているからです。
神様に対して証拠としての奇跡を求めるというのは、そういう勘違いではないかと思います。関係を結ぶのに一番大切な「交わり」を忘れて、神様の実力を試してみたいと思う、あるいはイエス様の実力を試してみたいと思う、これが証拠を求める態度の背後にある問題なのです。
イエス様が私たちとの間に打ち立てようとしておられる関係は、相手が自分の期待にどれだけ応えてくれるのかという殺伐としたうすっぺらな関係ではありません。それはむしろ、愛と信頼に裏打ちされた、もっともっと深い関係です。そして、その交わりのために与えられた唯一のしるしが「ヨナのしるし」でした。
この「ヨナのしるし」とは、40節にあるように、「ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、人の子も三日三晩、大地の中にいることになる」ということです。これは、イエス様が十字架に架けられて殺され、墓に葬られて、三日目に復活することを指し示しています。つまり、ヨナのしるしとは、イエス・キリストの十字架の死と復活のことなのです。このしるしの他には、しるしは与えられない、と主は言われたのでした。
この「しるし」は、人々が自分の願いによって求めた「しるし」とは全然違います。これは神様を値踏みするための「しるし」ではなくて、神様ご自身が私たちに与えて下さった「しるし」です。つまり、このヨナのしるしには、神様が、私たちとどのような交わり、どのような関係を築き上げようとしておられるのかが明確に示されていたのです。
では、そのヨナのしるしによって示されていることとは、いったい何でしょうか。それはまず第一に、イエス・キリストが、私たちのために十字架にかかって死んで下さった、ということです。神様の独り子であるイエス・キリストが、私たちの罪を背負って十字架にかかって死んで下さいました。それによって私たちの罪が赦され、こじれていた私たちと神様との関係が平和になったのです。もう私たちは神様の存在に怯えたり、逃げ回る必要はありません。神様は私たちの敵ではなくて、味方になって下さったのです。
そして第二に、そのイエス・キリストが死者の中から甦られたことです。死の力に勝利されたイエス・キリストが、今も生きて私たちと共にいて下さいます。常に私たちの傍らにいて私たちを導いて下さるのです。神様が私たちに与えようとしておられる交わりは、この死に勝利されたイエス・キリストと共に生きる交わりです。その交わりに生きる時に、私たちは、いつか必ず訪れる肉体の死が、決して絶望ではないことを知らされます。その死に打ち勝つ神の恵みを信じて、希望をもって生き、希望の内に死ぬことが出来る。「罪の赦し」と「死に対する勝利」、これが「ヨナのしるし」によって私たちに示されている事柄なのです。神様は、この恵みによる交わりを私たちとの間に打ち立てようとしておられます。それは、私たちが神様にしるしを求め、神様を値踏みする中で生まれる交わりとは全然違います。私たちの当面の願いや期待、必要に応えてくれるのは、ご利益を約束してくれる八百万の神々のように思えるのかもしれません。けれども、聖書の神様が与えて下さるものは、もっともっと深い恵みです。イエス・キリストの十字架と復活によって、「罪の赦し」と「死に対する勝利」が与えられるという、私たちの最も根源的な必要が満たされるのです。