日曜朝の礼拝「良い実を結ぶ木」

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良い実を結ぶ木

日付
説教
吉田謙 牧師
 35 善い人は、良いものを入れた倉から良いものを取り出し、悪い人は、悪いものを入れた倉から悪いものを取り出してくる。36 言っておくが、人は自分の話したつまらない言葉についてもすべて、裁きの日には責任を問われる。37 あなたは、自分の言葉によって義とされ、また、自分の言葉によって罪ある者とされる。マタイによる福音書 12章33節-37節

 普段、私たちが何気なく語っている言葉の一つ一つが、神様の前でその責任が問われる、と言われています。神様は、その一つ一つの言葉を、決して「どうでもよい」とは思っておられません。何故ならば、そのような一つ一つの言葉によって、神様と私たち、あるいは私たちと隣人との関係が築き上げられていくからです。隣人との関係において私たちがしばしば経験することは、ほんの些細な一言によって、相手を深く傷つけてしまう、ということです。語った側からすると、何気なく語った言葉であったとしても、相手にとっては深い心の傷となり、「あの人のあの一言は一生忘れない!」と思わせてしまうことがある。言葉というのは、それほどまでに重いものであって、決して「言葉ぐらい」と軽く見ることは出来ません。

しかし、そうであるならば、もう私たちは不用意に言葉を語ることが出来ないですね。自分の語ったつまらない言葉の一つ一つについても、すべて裁きの日に責任を問われるとするならば、もう私たちは一言も語ることが出来ないと思います。ただ黙っているほかはありません。何も語らなければ、不用意な言葉で人を傷つけることもないでしょう。けれども、それでは交わりそのものが成り立たなくなってしまいます。イエス様は、そういうことを私たちに望んでおられるのでしょうか。決してそうではありません。今日のイエス様の教えは、私たちから言葉を奪うためのものではなくて、むしろ、私たちが良い言葉を積極的に語っていくためのものなのです。

良い言葉を積極的に語っていくためには、何が必要でしょうか。善い人は、良いものを入れた倉から良いものを取り出し、良い言葉は、良い心から出てくる、と言われます。つまり、私たちが良い言葉を語るためには、私たちの心を、良いもので満たさなければならない、ということでしょう。

 では、心が良いもので満たされるとは、どういうことでしょうか。私たちの心の中に、憎しみや恨みや嫉妬といった悪い思いが一切なくなり、親切で優しい、好意的な良い思いだけが心を満たす、ということでしょうか。もしそういうことであるならば、私たちは一生かかっても、そうはなれないと思います。しかしイエス様は、そんなことを私たちに求めておられるわけではありません。ではイエス様は、私たちの心がどういう良いもので満たされることを願っておられるのでしょうか。先週学んだ31節と32節を読めば、それは聖霊のことなのだ、ということがよく分かります。31節。「だから、言っておく。人が犯す罪や冒涜は、どんなものでも赦されるが、“霊”に対する冒涜は赦されない。人の子に言い逆らう者は赦される。しかし、聖霊に言い逆らう者は、この世でも後の世でも赦されることがない。」

「“霊”に対する冒涜は赦されない」「聖霊に言い逆らう者は、この世でも後の世でも赦されることがない」と言われていたのです。これは、イエス様の癒しの御業に対して、「悪霊の頭とグルになっているから、こういう業ができるのだ!」と嘯いていたファリサイ派の人々に対する警告の言葉です。つまり聖霊の御業を軽んじているから、こういう愚かな言葉が口から出てくるのだ、と主は警告なさったのでした。逆に言うならば、聖霊によって心が満たされているならば、こういう愚かな言葉は出てこない、ということでしょう。

 このイエス様のお言葉は、先週もお話ししましたように、決してファリサイ派の人々を断罪する裁きの言葉ではありません。この厳しい警告の言葉を通して、イエス様は「あなた方も素直になって悔い改めるように!」と招いて下さったのです。律法主義の考え方に立ち続けるならば、自分の過ちを認めることは、自分の存在価値が目減りすることに繋がりますから、そう簡単には出来ないでしょう。けれども、聖霊がその人の心に宿るならば、その人の心は律法から解放され、自らの過ちを素直に認めることが出来るように変えられていきます。現に、イエス様が十字架につけられてから五十日ほど経った頃に、聖霊が降り、イエス様を十字架につけた人々が、心打ち砕かれて、自分たちが殺したイエスが実は救い主であったことに気づかされました。その時に彼らはどうしたでしょうか。聖霊に促されて素直に悔い改め、罪赦されて、洗礼を受けたのです。その数は実に3千人ほどであった、と言われています。使徒言行録2章36節以下に記されている出来事です。

聖霊は、私たちの心を絶えずイエス・キリストの十字架の恵みに結び合わせて下さいます。イエス・キリストの十字架の贖いによって、私たちの罪や汚れや欠けは全て洗い流されました。もう私たちは意地になって自分の正しさにこだわる必要はありません。間違っていたならば、素直に認めることが出来ます。聖霊が私たちの心に宿っているならば、どんなに私たちが罪深く、欠けや弱さや汚れがあったとしても、大丈夫なのです。何度でもやり直すことが出来ます。「あなたは自分自身の弱さや汚れや罪に嫌気がさしているのかもしれない。こんな傷があったなら、もう取り返しがつかないと、人生を諦めかけているのかもしれない。でも、大丈夫。あなたの罪は赦されている。あなたの罪は全部私が担ったから、あなたは諦めないで、勇気を出して、もう一度、やり直してみなさい。新しく生きてみなさい!」聖霊は、この御声を絶えず私たちの心に響かせて下さるのです。そして、この恵みのもとでは、私たちは、安心して、大胆に言葉を語ることが出来ます。不用意なことを言って罪を犯してはいけない、とびくびくしながら言葉を失っていくことがイエス様の御心ではありません。イエス様は私たちに、キリストの十字架の恵みによる罪の赦しに信頼しつつ、大胆に神様と隣人に向かって語りかけることを求めておられます。このイエス様の促しのもとで、より良い言葉を語り、神様と隣人との交わりをしっかりと築き上げていきたいと思います。

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