神の国の到来
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- 吉田謙 牧師
30 わたしに味方しない者はわたしに敵対し、わたしと一緒に集めない者は散らしている。マタイによる福音書 12章22節-32節
千里摂理教会の日曜礼拝は10時30分から始まります。この礼拝は誰でも参加できます。クリスチャンでなくとも構いません。不安な方は一度教会にお問い合わせください。
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今日の箇所には、目が見えず、口もきけない人が登場します。この人は、ただ目が見えず、口がきけなかっただけではなくて、「悪霊に取り憑かれ、神様から見捨てられた」という汚名を着せられていました。イエス様は、この人を癒され、「悪霊に取り憑かれている」という汚名を返上して下さったのです。ところが、このイエス様の癒しの御業を見て、イエス様に敵対しているファリサイ派の人々は、「イエスは悪霊の頭(ベルゼベル)とグルになっているから悪霊が従うのだ」と非難したのでした。こうしてイエス様とファリサイ派の人々の間に「ベルゼベル論争」と呼ばれる論争が始まったのです。この論争の中でイエス様は、「わたしに味方しない者はわたしに敵対し、わたしと一緒に集めない者は散らしている」と言われました。 「わたしと一緒に集める」というのは、人々を救いへと招くイエス様の働きに参加する、ということでしょう。もし、イエス様と一緒に集めることを拒むならば、その人は散らしていることになる、イエス様に敵対しているのだ、と言うのです。イエス様に対して中立はあり得ない、敵か味方か、どちらかでしかない、と言うのです。何故、イエス様はそこまで厳しく迫られるのでしょうか。それは、私たちの命に関わることだからです。
イエス様はよく羊飼いに譬えられます。羊飼いは、羊が迷って散っていくのを懸命に集めようとします。何故でしょうか。仕事だからでしょうか。決してそうではありません。羊が散っていくというのは死を意味していたからです。弱い羊が群れから迷い出てしまう時に、たちまち飢えた野獣の餌食になってしまいます。群れの外は色んな危険で一杯です。迷い出た羊が見つからなければ、それは、たちまち死を意味していたのです。だからこそ羊飼いは懸命に羊を集めようとしました。そうやって羊飼いが一所懸命、羊を集めようとしている時に、もし何もせずにその様子をただ傍観しているだけならば、それは決して「中立である」とは言えません。傍観しているというのは、羊が散ってもよい、羊が滅んでもよいと考えている、ということです。これは即ち、敵対しているということでしょう。このように考えるならば、このイエス様の厳しい言葉も、ある意味、納得できるのではないかと思います。
この時イエス様は、迷い出た一匹の羊を、懸命に連れ戻そうとしておられました。悪霊にとりつかれていた人は、目が見えず、口も利けないというハンディを負っていたために、壮絶な苦しみを味わっていました。その障碍がもたらす苦痛もさることながら、このような障碍や病を身に負うているのは、その人か、あるいはその人の家族が罪を犯したからに違いない、と理解されていたのです。現にユダヤ教の指導者たちは、彼のような障碍を負っている人に対して、「それは罪に汚れている証なのだ」と宣告したのでした。それによって彼は、ただ肉体的な苦痛だけではなくて、精神的な苦痛、宗教的な「罪に汚れている」「どうあがいても救われようが無い」という苦痛を味わっていたのです。そういうわけでイエス様は、ただ肉体的苦痛から彼を解放しただけではなくて、そういう精神的、宗教的な苦痛からも彼を解放したのでした。この時、彼は、本当に人間らしく生きる者へと回復されたのです。
イエス様ご自身は、どれだけ罵られようが、けなされようが、そんなことをいちいち気になさるお方ではありません。けれども、せっかくイエス様に病気を治してもらったのに、「あのイエスという男は悪霊の力で人を治すそうだ」という噂が広まってしまったなら、いったいどうなるでしょうか。周りの人がそれを信じ、せっかく治った彼を再び排除するかもしれません。神様がせっかく癒しを与え、活かそうとされた人から、決して命を奪うことがあってはならない。そういう思いで、イエス様は「あなたは私に味方するのか。それとも敵対するのか」と迫られたのでした。
本当にイエス様は、一人一人の命を大切になさるお方です。このベルゼブル論争の記事を学ぶ時に、私たちはついついこの論争のことだけに注目し、この悪霊を追い出された人については忘れがちになります。けれども、それはとんでもないことです。そもそもイエス様が、ここで論争なさったのは、この目が見えず、口が利けない一人の人を救うためでした。ただ肉体的に癒すだけではなくて、肉体も魂も全人的に癒すためだったのです。ここで私たちは、一人の人の命を救うために全力を尽くして働かれるイエス様のお姿を、しっかりと心に刻んでおかなければなりません。
宗教改革者ルターは、教会に生きる一人一人は小さなキリストである、と言いました。これはとても畏れ多いことですが、その通りだと思います。教会はキリストの体です。ある人はキリストの手であり、ある人はキリストの足であり、ある人は目であり、耳であり、口である、と言われます。つまり、教会の一人一人は、ある人はキリストの目として、またある人はキリストの口として、ある人は手、ある人は足として、それぞれの場所へと遣わされていくのです。それは愛する家族のもとであり、それぞれの職場であり、学校であり、地域社会です。私たちの誰かが、一人の人の悲しみにじっと耳を傾け、共に祈り、涙するならば、それはキリストが、その一人を通して、その方の悲しみにじっと耳を傾け、その方のために祈っておられる、涙しておられる、ということです。私たちが、それぞれ遣わされた場所で、決して傍観者になるのではなくて、まず自分自身の信仰をしっかりと握りしめ、イエス様と共に懸命に生きる時に、神様はこの小さな私たちを用い、迷い出た羊を集めて下さいます。「教会学校の子供たちのために仕えよう」と決心し、今、実際に幼い子供たちに仕えておられる方々がいらっしゃいます。まず自分の家族に優しい言葉をかけることから始めよう、と決心した方もいらっしゃいます。まだどうしていいのか分からず、まず祈ることから始めた方もいらっしゃいます。これは人から「ああしなさい」「こうしなさい」と指図されることではありません。一人一人が神様との関わりの中で、自然と示されていくものでしょう。
神の国はもう既にここに来ています。この喜びを、それぞれ遣わされた場所で、生き生きと表していきたいと思います。