日曜朝の礼拝「傷ついた葦を折らないキリスト」

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傷ついた葦を折らないキリスト

日付
説教
吉田謙 牧師
 18 見よ、わたしの選んだ僕。わたしの心に適った愛する者。この僕にわたしの霊を授ける。彼は異邦人に正義を知らせる。19 彼は争わず、叫ばず、/その声を聞く者は大通りにはいない。20 正義を勝利に導くまで、/彼は傷ついた葦を折らず、/くすぶる灯心を消さない。21 異邦人は彼の名に望みをかける。
マタイによる福音書 12章9節-21節

 18節には「彼は異邦人に正義を知らせる」と言われています。また21節には「異邦人は彼の名に望みをかける」とも言われています。「異邦人」というのは外国人のことです。ユダヤ人の信仰からすると、異邦人とは「神様に選ばれていない人」、「救いから漏れている人」を意味します。今日の箇所に登場する「片手が萎えた人」は、決して異邦人ではありません。同じ信仰に生きるユダヤ人です。しかし、当時は因果応報の原理が人々の間に浸透していましたから、この人は、片手が萎えているがゆえに、ユダヤ人の交わりから排除されていました。「お気の毒に」とは思うけれど、「あんなになったのは自業自得であり、あの人が悪いことをしたからこうなったのだ!」と人々は受けとめていました。つまり、この人は、異邦人と同じように「救いから漏れている人」と人々から見なされていたのです。ここでは、イエス様が、神様から遠いと思われていた異邦人に正義を知らせて下さると言われています。ここで「正義」と訳されている言葉は、「公平」とも訳すことが出来る言葉です。人を不当に扱わない、人を真実に生かす正義です。そして20節では、そういう正義を貫くために、「彼は傷ついた葦を折らず、くすぶる灯心を消さない」と言われます。この「葦」というのは、高さ約2~3メートルほどの細長く、折れやすいイネ科の植物です。そういう元々脆い葦が既に傷ついていると言われているのですから、少し力を加えただけでも折れてしまうかもしれません。「くすぶる灯心」も同様です。消えかかっている蝋燭の火は、放っておくとすぐに消えてしまうでしょう。「傷ついた葦」、「くすぶる灯心」、これらは将に今日の箇所に登場する片手が萎えた人の姿そのものではないでしょうか。彼は、人々からは見捨てられ、傷つけられ、弱り果てて、世の中の片隅で細々と生きていました。ほんの僅かな力が加わるだけでも、この人の心は折れてしまうかもしれません。イエス様は、そういう「傷ついた葦」を決して折ることがなく、「くすぶる灯心」を決して消すことがない、と言われているのです。要するにイエス様は、弱り切った人の心が折れることがないように優しく包み込み、しっかりと支えて下さりながら、その弱り切った魂を奮い立たせて下さる、と言われているのです。マタイは、今日の物語を書き記す中で、これこそ将にイザヤが預言していた救い主の姿そのものではないか、と言いたかったのでしょう。

 この片手が萎えた人は、伝説によると、石を刻む職人であった、と言われています。最初から障害があった人ではなくて、もともとこの人は元気に働いていた人であった、と言うのです。けれども、脳溢血か何かで、ある時、この人は半身不随になってしまったのでしょう。当時は因果応報の考え方が浸透していただけに、この病気による障害は、今、私たちが想像する以上に、彼の心に深い影を落としていたに違いありません。「もうこれで自分の人生は終わった!神様からも世間からも見捨てられてしまった!」こういう思いが、彼の心を支配していたのです。けれども、その彼がイエス様によって癒されました。不自由な体ゆえに一人前に扱われず、社会の片隅でひっそりと生きていたこの人が、イエス様によって癒され、もう一度、希望をもって人生を歩み始めたのです。

 「イエス・キリストこそ、神様から遠いと思い込み、人々からもそう判断されていた全ての人々の希望である!」、「異邦人は彼の名に望みをかける!」マタイはこう書かずにはおれなかったのではないでしょうか。これがマタイの信仰告白です。そして、これこそキリストの教会が、世に伝えていかなければならない真理ではないかと私は思います。

この地域にも、様々な苦しみをかかえ、心萎えておられる方々が大勢いらっしゃると思います。誰も自分を愛してくれないと思い込み、人生を諦めかけている方々も大勢いらっしゃるのではないかと思います。キリストの教会は、そういう、社会からはみ出してしまった人々に語る言葉をちゃんと持っていると思います。もし、そういう人々にキリストの福音が届いていったなら、その人たちはやがては立ち上がり、希望を見出していくことでしょう。

 私は、どんな悩みを抱えている人であっても、教会に来て、このイエス・キリストを信じるようになれば、すべてが解決するのではないかと信じています。決してその人が望むような結果が得られるわけではありません。そうではなくて、イエス・キリストに出会い、その救いに与ったならば、私たちは、イエス・キリストの救いの光の中を歩むことが出来ます。私たちがこれまで歩んで来た道のりと、今、置かれている状況、そしてこれから私たちが歩んで行こうとしている道を、私たちを、御子を十字架に犠牲にしてまでも愛し抜いてくださる神様の深い憐れみの御手の中にあることとして、明るい希望の光のもとで受け取り直すことが出来るのです。その時に、自分を取り巻く状況の色が一変するのではないかと思います。重く暗い景色が、軽く明るい、喜びと希望に満ち溢れた穏やかな景色に、きっと変わっていくことでしょう。

 この混迷の時代の中にあって、今、私たちクリスチャンがまず何よりもしなければならないことは、この葦を折らず、くすぶる灯芯を消さないキリストの福音を宣べ伝えていくことです。そういうわけで私たちは、それぞれの仕方で、このことに全精力を傾けていきたいと思います。

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