安息日の主
- 日付
- 説教
- 吉田謙 牧師
1 そのころ、ある安息日にイエスは麦畑を通られた。弟子たちは空腹になったので、麦の穂を摘んで食べ始めた。2 ファリサイ派の人々がこれを見て、イエスに、「御覧なさい。あなたの弟子たちは、安息日にしてはならないことをしている」と言った。3 そこで、イエスは言われた。「・・・・ 8 人の子は安息日の主なのである。」
マタイによる福音書 12章1節-8節
千里摂理教会の日曜礼拝は10時30分から始まります。この礼拝は誰でも参加できます。クリスチャンでなくとも構いません。不安な方は一度教会にお問い合わせください。
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「人の子」という表現は、イエス様がご自分のことを言う時に、好んで使われた言い方です。イエス様はここで、「私は安息日の主である。私こそ、真実の安息を与える権威ある者なのだ!」と主張なさったのでした。「そもそもあなた方は安息日を何と心得ているのか。神が安息日に休めと命じられたのは、いったい何のためか。神と共に休み、憩うためではなかったか。あくせくと働いていたその働きから解放されて、ただひたすらに神様を仰ぎ、神様を賛美し、神様の語りかけを聞くこと、そのようにして神様との親しい人格的な交わりの中で憩いの時を過ごすというのが本来の安息日の過ごし方ではなかったか。それなのに今はどうか。安息日に人々は、人目を恐れ、びくびくしながら、後何歩、歩くことが許されるだろうかと周りを見回している。そんなところに本当の安息があるというのか。あなた方は明らかに間違っている。私こそ律法を越えて、真実の安息を与える安息日の主なのだ!」これがイエス様の主張です。
教会に集まってくる信徒一人一人は、皆、幸せ一杯の人たちばかりではありません。私たちは、教会の中で、毎週、毎週、様々な試練に出会っておられる方々のニュースを聞くのです。皆それぞれに様々な痛みや悲しみ、苦しみを抱えながら生きています。けれども私たちは、そのような苦しみや悲しみに押しつぶされることなく、こうして毎週日曜日にここに集まり、礼拝を捧げています。何故でしょうか。それは、この礼拝の中で一人一人が神様との人格的な交わりが与えられ、魂の平安をいただいているからでしょう。 あるクリスチャン雑誌に、こういう証しが掲載されていました。ある施設に、一人の孤児が生活していたそうです。その子は、とてもひどい吃音(きつおん)で、誰の前に出ても、びくびく恐れて、一つの言葉の発音にも、どもってしまったと言います。ある日曜日、その施設をいつも訪ねては子供たちと一緒に礼拝をしてくれる牧師が、その日は都合がつかず休んでしまいました。それでも、みんなは集まりました。そうすると、思いがけないことに、このいつもはどもってばかりいる男の子が、自ら進んで祈り始めたのです。そして、この子は牧師の代わりに、一言もどもることなく堂々と祈り終えたのでした。後でみんなから尋ねられて、この子はこう答えたそうです。「僕は一人で神様の前でお祈りする時には、一度もどもったことがないんだ。それは神様が僕のことを愛していて下さることがよーく分かるから!」この子がどんな不幸な体験をしたのかは、よく分かりません。けれども、毎日、毎日、人を恐れながら、今まで生きてきたのです。そんなこの子が、牧師から「神様はきみのことを愛していて下さるよ」と教わり、その神様に祈ることを教わったのです。やがてこの子は、祈りの中で、神様が自分を愛していて下さることを実感したのでしょう。その神様の前にひざまずく時に、この子は、恐れから解放されました。どもることをすっかり忘れてしまったのです。
イエス・キリストこそ、安息日の主です。この日、私たちはイエス様との豊かな交わりの中で、真実に憩うことが出来ます。では、この安息日の主であるイエス・キリストとは、どういうお方でしょうか。それは、いつもどもってしまう子供に、どもることを忘れさせてしまうようなお方です。おそらく、先程の吃音の子供は、一人祈る中で、イエス様の本当に大きな愛に触れて憩うことが出来たのでしょう。だからこそ、どもることさえ忘れてしまったのです。私たちは、この日曜日に、ただ体を休めるだけではなくて、礼拝に集い、そこで御言葉の説きあかしを聞き、神様が私たちのことを見つめておられる眼差しに触れるのです。私たちがどんなに欠けだらけで、罪に汚(けが)れていても、「あなたは私にとって決して失われてはならない、掛け替えのない尊い存在なのだ。御子を十字架につけるほどに、私はあなたを愛している!」と語りかけて下さいます。私たちは、日曜日の礼拝のたびに、この神様の愛と憐れみの眼差しに触れるのです。この神様の愛と憐れみに包まれる時に初めて、私たちは本当の意味で心安らぎ、霊的安息を得ることが出来るのではないでしょうか。逆に、こういう神様の愛と憐れみが味わえないようなところで、いくら立派な宗教的儀式が捧げられたとしても、全く意味がありません。ファリサイ派の人々が捧げていた礼拝は、将にそのような礼拝でした。人間の努力や熱心ばかりが強調され、神様の憐れみが味わえないのです。
人間は、神様の愛の中でこそ、真実に憩うことが出来ます。そういう神様の愛を実感し、真実の平安を受け取っている人は、安息日にお腹がすいて麦の穂を摘んだからと言って、躍起になって指摘することなどしません。それは許される世界でしょう。もともと神様が定めて下さった掟は、そういうものでした。「隣人のぶどう畑に入る時は、思う存分満足するまでぶどうを食べてもよいが、籠に入れてはならない。隣人の麦畑に入る時は、手で穂を摘んでもよいが、その麦畑で鎌を使ってはならない。」(申命記23:25-26)。もともと、この掟の心も、この「神様の愛と憐れみ」に基づいていたはずです。それなのに、どうしてあなた方は、その掟の心を捨ててしまったのか、どうしてその優しさを忘れてしまったのか、イエス様は深い悲しみをもって、そのことを問われたのでした。