まことの安らぎ
- 日付
- 説教
- 吉田謙 牧師
28 疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。29 わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。30 わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。
マタイによる福音書 11章25節-30
千里摂理教会の日曜礼拝は10時30分から始まります。この礼拝は誰でも参加できます。クリスチャンでなくとも構いません。不安な方は一度教会にお問い合わせください。
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当時の人々は、この「軛」という言葉を、「掟」を意味するものとして用いました。軛とは、重い荷物を運ぶための道具です。軛があるからこそ、家畜を用いて重い荷物を運ぶことが出来たのです。そういうわけで、人生の重荷を背負いながら生きていく時の最も優れた手立てとして、掟に生きることが求められたのでした。ところが、その掟が逆に人々を疲れさせることになってしまったのです。これが、いわゆる「律法主義」の弊害です。律法主義というのは、神様の戒めである律法を守ることで救いを獲得しようとする生き方です。本当は、そんなことは誰にも出来ないのですが、その掟を守ることを強いられた人々は、その重荷に耐えかね、悲鳴をあげていたのです。イエス様は、この現状を嘆かれながら、だからこそ人々をまことの安らぎへと招かれたのでした。「わたしのもとに来なさい。あなた方を休ませてあげよう」と。
けれども、イエス様は「もう軛は捨てなさい」、「律法など必要ない」とは言われませんでした。むしろ、「わたしの軛を負うように」、「あなた方に新しい掟を与えよう」、「わたしが教えるように生きてみなさい」と招いて下さったのです。ただし、イエス様は「私の軛は負いやすく、わたしの荷は軽い」と言われました。ではイエス様の軛、即ちイエス様が与えて下さる新しい掟は水準が低いのでしょうか。決してそうではありません。以前、山上の説教を学んだ時に私たちが思い知らされたのは、イエス様が求められることの水準の高さではなかったかと思います。例えば、「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」(マタイ5:43-44)とイエス様は教えられました。イエス様は本当に高い水準のことを求められます。では何故イエス様は、「私の軛は負いやすく、わたしの荷は軽い」と言われたのでしょうか。イエス様は、「私は柔和で謙遜な者だから」と言われました。イエス様は、とても高い水準のことを求められるのですが、しかしこのお方は、本当に柔和で謙遜なお方なのです。敵を愛するどころか、友達をも憎んでしまうような私たちです。けれどもイエス様は、そんな私たちのことを蔑み、苛立ち、見捨てるようなことはなさいません。また、「こんな敵対心むき出しの人を愛するのは、あなたの実力では到底無理だろう。もう愛さなくてもよろしい!」とも言われません。イエス様は、水準を下げて負いやすくして下さるわけではないのです。そうではなくて、「愛することが出来ない、そのあなたの罪は、私が全部十字架の上で担った。もうあなたの罪は全部赦されている。だから、くよくよせずに、諦めないで、もう一度、新しく生きてみなさい。隣人を愛して生きてみるように!」と、主は同じ過ちを繰り返す私たちに対して、決して苛立つことなく、何度でも柔和に励まし続けて下さるのです。このイエス様のもとでは、どんなに高い水準の求めを聞かされたとしても、やはり「この軛は負いやすい」と言えるのではないでしょうか。
「まことの安らぎ」とは何でしょうか。重荷や疲れが全く無くなることでしょうか。決してそうではありません。人間は、何の働きも期待されず、何の重荷もない日々が続く時に、苦痛を覚え、空しくなります。イエス様が与えて下さる安らぎは、何の働きも何の重荷もない安らぎではありません。「あなたはこのように生きなさい」という指針がちゃんと与えられています。確かに神様は、罪や汚れをもったままの私たちを、あるがままで受け入れて下さいます。けれども、それは、ただ「あるがままでいいよ」と、私たちに何の期待もしない、というわけではないのです。神様は十把一絡げではなくて、一人一人に注目しながら、その人にしかない輝きを見出し、個別に期待して下さいます。しかも、それは、その人を押しつぶすような残酷な期待ではありません。何故ならば、イエス・キリストの十字架がその土台にしっかりと据えられているからです。私たちは、キリストの十字架によって赦されているという平安の中で、それぞれの使命に生きることが出来るのです。結局、この柔和で謙遜なイエス様の眼差しのもとで、それぞれの使命に生きることこそ、その人が最も生き生きと輝いて生きる道ではないか、と私は思います。そして、その道を歩む中でこそ、本当の安らぎが得られるのです。
そもそも軛というのは、農作業や車を引くための二頭の牛などを結びつける横木のようなものです。イエス様がここで「わたしの軛」と言われる時に、それはイエス様が、私たちと一つの軛でしっかりと結び付けられている、ということを意味しています。ちょうど牛や馬が横木でつながれて、黙々と荷物を引いたり、畑を耕したりするように、イエス様は私たちと運命を共有し、共に歩んで下さるのです。「わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽い」と言われているのは、イエス様がその大部分を背負っていて下さるからでしょう。イエス様が「このように生きなさい」と言われる時に、私たちが重苦しく感じるのは、自分の力でやり遂げようとするからです。しかし、本当はそんな肩肘張る必要はありません。私たちは、イエス様と一つの軛でしっかりと結びあわされています。私たちは、イエス様に重荷を背負っていただき、イエス様に励まされながら、イエス様と共に歩むのです。
「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」私たちは、努力も戦いもないような平安と喜びに招かれているのではありません。主と軛を共にしながら、共に戦い、共に苦しむ辛さの中で、主の恵みを味わい知ることが出来る、そういう喜びと平安に招かれているのです。この素晴らしい主の招きに、どうか喜んで応えていただきたいと思います。