主イエスの嘆き
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- 吉田謙 牧師
20 それからイエスは、数多くの奇跡の行われた町々が悔い改めなかったので、叱り始められた。21 「コラジン、お前は不幸だ。ベトサイダ、お前は不幸だ。お前たちのところで行われた奇跡が、ティルスやシドンで行われていれば、これらの町はとうの昔に粗布をまとい、灰をかぶって悔い改めたにちがいない。」
マタイによる福音書 11章20節-24節
千里摂理教会の日曜礼拝は10時30分から始まります。この礼拝は誰でも参加できます。クリスチャンでなくとも構いません。不安な方は一度教会にお問い合わせください。
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ここでイエス様は、これらの町々で「数多くの奇跡を行われた」と言われています。そもそもイエス様がなさった奇跡とは、どういう奇跡だったでしょうか。イエス様がなさった奇跡は、全て恵みの奇跡でした。体に障害のある人々や重い病にかかった人々、神様から見捨てられたと人々からレッテルを貼られている人々に対して、イエス様は救いの御手を差し伸べて下さったのです。イエス様は、これらの奇跡を通して、「どんなに見捨てられたように思える人であっても、神様は決してお見捨てにならない!」ということを伝えようとなさったのでした。
それでは、そういう恵みの奇跡を行うことで、イエス様が人々に期待されたこととは、いったい何だったでしょうか。それは「悔い改め」でした。イエス様は、愛に満ちあふれた恵みの奇跡こそ、人を悔い改めに導く決め手なのだ、と確信しておられたのです。ところが、そのような恵みの奇跡を沢山行われたコラジンやベトサイダ、カフアルナルムの町の人々が悔い改めなかったのでした。そのために、今日の箇所でイエス様はとても深い嘆きを露わにしておられます。
ここでイエス様は、万策尽きて、「コラジン、お前は不幸だ。ベトサイダ、お前は不幸だ」と嘆かれました。この「不幸だ」と翻訳されている言葉は、ギリシャ語原文では「ウーアイ」という言葉になっています。この「ウーアイ」というのは、意味をもった言葉ではありません。いわゆる擬音語であり、「ウーン」とか「アー」というような「呻き声」なのです。つまり、ここでイエス様は「ウーアイ、コラジン。ウーアイ、ベトサイダ」と呻き声をあげながら、本当に深い嘆きを露わにされたのでした。
以前、あるご婦人が、ご主人が全く教会に対して理解を示してくれないと、歯がゆい思いを抱きながら、涙ながらに相談に来られたことがありました。この方の気持ちは、私たちにもよく理解できるのではないかと思います。家族の救いのために涙を流して祈ったことがないような人はいないと思います。もし強制できるのなら、それこそ首に縄を掛けてでも神様に従わせたいのです。けれども、悔い改めというのは、イエス様がベストを尽くしても、最後は嘆く他はなかったのです。私たちもイエス様と同じように、家族の救いのことを思うと、「ウーアイ」と呻きたくなることがある。今日の御言葉は、そういうイエス様の嘆きの言葉なのです。
それではイエス様は、この時、もうこれらの町に絶望し、見放した言葉を語られたのでしょうか。決してそうではありません。20節のところには、こう言われています。「それからイエスは、数多くの奇跡の行われた町々が悔い改めなかったので、叱り始められた。」
「叱り始められた」というのは、これで絶縁という言葉ではありません。イエス様は、最後の判決の言葉を、ここで語っているわけではないのです。親が愛する子供を叱るように、イエス様はここで叱り始められたのでした。
アモスという旧約の預言者が、この世で人々が味わう最も恐ろしい神様の裁きについて、このように語っています。「見よ、その日が来ればと/主なる神は言われる。わたしは大地に飢えを送る。それはパンに飢えることでもなく/水に渇くことでもなく/主の言葉を聞くことのできぬ飢えと渇きだ。」(アモス8:11)。
本当に恐ろしいのは、神様の叱り始める言葉が聞こえてくることではありません。本当に恐ろしいのは、「悔い改めよ!」という神様の語りかけが止んでしまうこと。神様が黙ってしまわれることなのです。イエス様は、この時、黙ってしまわれたわけではありません。叱り始められたのです。そして、「神様の愛を示すことが人々を悔い改めに導く最善の道である」というイエス様の確信が、この時、揺らいだわけでもありません。イエス様は、この後も、恵みの奇跡を行い、神様の愛を知らせることで、人々を悔い改めへと導かれました。そして最後の最後には、十字架という仕方で、究極の神様の愛を表すところまで突き進んで行かれたのです。
今、私たちは、マタイによる福音書を少しずつ読み進めています。マタイだけではなくて、全ての福音書の物語は、十字架の光のもとで読むべき物語です。福音書を読む人たちは、初めて聞く人の物語を読むのではありません。初代教会の中で、福音書の物語を読んだ人は、毎週、聖餐式にあずかりながら、この物語を読んだのです。他でもないこの私の罪のためにキリストは十字架の上で死んで下さった。肉を裂き、血を流して下さった。そのことを心に刻みつつ、この福音書は読まれたのでした。連続テレビドラマのように、「この人は最期にはどうなってしまうのだろうか?!」とハラハラドキドキしながら読んだのではありません。私のために十字架の上で死んで下さったお方が、かつてどのような歩みをされたのかを読んでいったのです。ですから、福音書を読む時のこつは、十字架に進まれたイエス様が、何を行われ、何を語られたのかを読み取る、ということです。今日の御言葉は、今日の箇所だけで判断すれば、ただの嘆きの言葉にしか過ぎません。けれども、私たちは今日の御言葉を、十字架の道を突き進まれたイエス様のお言葉として読むことが出来ます。イエス様は、恵みを示すことで私たちを造り替える道を、まだ諦めておられません。病人を癒すだけではなくて、究極の愛を差し出す十字架に向かわれながら、今日の御言葉を語っておられるのです。