日曜朝の礼拝「神の知恵」

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神の知恵

日付
説教
吉田謙 牧師
18 「ヨハネが来て、食べも飲みもしないでいると、『あれは悪霊に取りつかれている』と言い、19 人の子が来て、飲み食いすると、『見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ』と言う。しかし、知恵の正しさは、その働きによって証明される。」
マタイによる福音書 11章7節-19節

今日の箇所でイエス様は、人々が聞くことを嫌った神様の語りかけを、二つ取り上げておられます。一つ目は洗礼者ヨハネが伝えた神様の語りかけです。洗礼者ヨハネは、イエス様が救い主として現れる少し前に、贅沢三昧にふけり、罪を重ねていた神の民に対して、自ら毛衣を着た質素な生活態度をもって模範を示しながら、烈火のごとく悔い改めを迫った人でした。18節のところに、「ヨハネが来て、食べも飲みもしないでいると、『あれは悪霊に取りつかれている』と言っている」と言われています。ここには、洗礼者ヨハネが食べも飲みもしなかった、と言われていますが、勿論、全く食べも飲みもしなかったわけではありません。これは、ご馳走を食べて浮かれるような生活はしなかった、ということでしょう。「このままでは、あなた方は滅んでしまうではないか。そうならないためにも、今、自分の罪に早く気づいて、心から悔い改めて欲しい!」彼は、目の前にいる人々のことが心配で心配で、ご馳走を食べ、浮かれるような気分にはなれなかったのです。人々は、この洗礼者ヨハネを通して現された神様の語りかけを嫌いました。「そんなに厳しいことは言わないで、もっと気楽に過ごせばよいではないか?!」と人々は思ったのです。そして、真剣に悔い改めを迫るヨハネに向かって、人々は「あんなに『悔い改めよ』『悔い改めよ』と何度も叫び続けるのは、悪霊に取りつかれて気が変になっているからではないか?!」と罵倒したのでした。

 人々が嫌った、もう一つの神様の語りかけは、イエス様を通して現された神様の語りかけです。イエス様は、神様が罪人を愛して赦しておられることを教えられました。そして、ただ教えられただけではなくて、実際にご自分の生活を通して、そのことを示されたのです。神様の代理としてこの世にやって来られたイエス様が、ご自分の食卓に、町中で一番嫌われていた人たちを招き、その食卓でイエス様は、彼らと共に食べ、飲み、楽しまれながら、「あなたがたも神の国の一員なのだ」と招かれたのでした。人々は、このイエス様を通して現された神様の語りかけに対しても耳を塞ぎました。「神様があんなごろつきの罪人までも赦すなんて、あり得ないことだ!自分たちのように、少しは真面目に生きている人間こそが神様に認められるはずではないか。主イエスのように、底なしに人を赦し、人を喜びに招くのは、あまりにも不謹慎すぎる!」このように人々は考えたのです。それで彼らは、このイエス様のことを、このように批判しました。19節。「人の子が来て、飲み食いすると、『見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ』と言う。」

 しかし、よくよく考えてみると、私たちが聖書から教えられる神様の語りかけの中心は、この「悔い改めの呼びかけ」と「罪の赦しへの招き」ではないかと思います。自分勝手な思いで、この神様の語りかけに耳を塞ぐのではなくて、素直にこの神様の語りかけに耳を傾けたいと思います。

 イエス様は、今日の御言葉の最後に、「しかし、知恵の正しさは、その働きによって証明される」と言われました。神様の語りかけに対して、人々は「厳しすぎる!」とか、「こんなに底なしに赦すのは不謹慎ではないか」という具合に、人間の知恵によって好き勝手なことを言ったのです。けれども、神様の知恵の正しさは、その働きによって証明される、と言われています。私たちを悔い改めに導き、その後で完全な罪の赦しを与え、喜びの内に招いて下さる、この神様のお働きが現れる時に、「神様の知恵は本当に正しかった!」ということが証明されるのです。

 ルカによる福音書は、同じイエス様のお言葉を、このように伝えています。「しかし、知恵の正しさは、それに従うすべての人によって証明される。」(ルカ7:35)。このルカによる福音書の御言葉を参考にするならば、今日の箇所の「神の知恵はその働きによって証明される」というのは、神様の知恵は「神様の語りかけに聞き従う人によって証明される」と言い換えることが出来ることが分かります。

 自分の罪を素直に認め、心から悔い改めて新しく出発すること、そうやって悔い改める者の罪を神様は何度でも赦し、愛し、受け入れて下さること、この二つの事柄が人間の必要を適格にとらえているのではないかと私は思います。私たちが人間らしく、生き生きと輝いて生きるためには、この「悔い改め」と「罪の赦し」がどうしても必要なのです。そして、そのことは神様の語りかけに聞き従っている人たちの姿を見れば一目瞭然です。彼らによって神様の知恵の正しさが証明される、と主は言われるのです。私たちは、これまで神様の語りかけに真剣に耳を傾けてきました。ですから私たちの生活を通しても、神様の知恵の正しさは証明されているはずです。

 先週一週間の歩みをそれぞれに振り返っていただきたいと思います。自分の思いや言葉や行いに、何か心責められることがなかったでしょうか。もし、そういうことがあったならば、皆様はその時、どうなさったでしょう。「ああ、またやってしまった。仕方がない」と自分に言い聞かせながら、諦めてしまったでしょうか。それとも、「なんで、いつも自分はこうなのだろう?!」と、自分を繰りかえし責め続け、ぺしゃんこになってしまったでしょうか。おそらく、そうではなかったと思います。たとえ、そういうところを通り抜けたとしても、最終的にはイエス様の十字架に依り頼みながら、「どうかこの私をお赦し下さい」と祈りつつ、立ち上がっていかれたのではないでしょうか。私たちは、この姿を通して、神様の知恵の正しさを証明しているのです。

 これまで私たちは、色んな失敗を繰り返し、神様を悲しませてきました。その一つ一つを思い起こす時に、本当に身が縮むような思いがいたします。もしかすると、今もなお、心の整理がつかず、悔いを残していることがあるのかもしれません。けれども、人が赦してくれなくても、あるいは自分で自分が赦せなくても、イエス様はあなたのことを赦しておられます。私たちが本当に心からその罪を悔いているならば、それらは全部、イエス・キリストにあって赦されているのです。ですから、今、全ての罪をかなぐり捨てて、それらを全部、イエス・キリストの十字架によって赦していただきましょう。そうやって何度でも悔い改めて、「もう一度、新しく生きてみよう!」と晴れ晴れと歩み出す時に、その私たちの姿を通して、神様の知恵の正しさを証明しているのです。

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