来るべき方
- 日付
- 説教
- 吉田謙 牧師
4 イエスはお答えになった。「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。5 目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。6 わたしにつまずかない人は幸いである。」
マタイによる福音書 11章2節-6節
千里摂理教会の日曜礼拝は10時30分から始まります。この礼拝は誰でも参加できます。クリスチャンでなくとも構いません。不安な方は一度教会にお問い合わせください。
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今日の箇所に登場する洗礼者ヨハネという人は、「イエス様こそ、これまで人々が待望し続けてきたメシア、救い主である」と告げた人でした。ところが彼は、領主ヘロデの姦淫の罪を非難したために、ヘロデに捕らえられ、この時、牢獄の中にいたのです。しかも、この時、彼は、明日にでも処刑されるかもしれないという、非常に緊迫した状況の中に置かれていました。そのような洗礼者ヨハネが、「来るべき方、即ち、救い主は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか?」と使いの者たちに尋ねるように託した、と言われているのです。これは明らかに、ヨハネがイエス様に対して疑問を抱き始めていた、ということの証でしょう。最初にイエス様のことを救い主として指し示したヨハネが、どうしてここに来て、こういう頼りない言葉を発したのでしょうか。
それは、ヨハネが考えていた救い主の姿と、弟子たちから伝え聞くイエス様の姿とが、大きく食い違ってきたからでしょう。旧約以来、人々の救い主への期待には、二つの面があったと言われています。一つ目は、神の民の罪を清め、神の民に祝福をもたらす、という期待です。もう一つは、神の民に敵対する者たちを裁き、こらしめ、無力にする、という期待でした。おそらくヨハネも、イエス様にこういう救い主としての活動を期待していたのではないかと思います。ところが、イエス様が実際になさったことは、そういうことだったでしょうか。一つ目の「罪を清め、祝福をもたらす」という点に関しては、イエス様はその救い主としての御業を遺憾なく発揮なさったと思います。ところが、二つ目の「敵対者を裁き、討ち滅ぼす」という裁き主としての御業に関しては、イエス様は全くと言ってもよいほどに無関心だったのです。おそらくヨハネは、この柔和なイエス様のお姿に躓きかけたのでしょう。神の民を苦しめている敵をも罰せず、誰をも裁かない、そういうイエス様の柔和さにガッカリしたのだと思います。けれども、イエス様は、ヨハネが想像もしなかったような仕方で本当は裁きをなさったのです。それは悪人を実際に罰するというのではなくて、イエス様ご自身がその裁きを一手に引き受け、人々の身代わりとして十字架の上で死んで下さる、というものでした。あの十字架の上でイエス様は、本来、私たち一人一人が受けなければならなかった神の裁きを、全部お一人で引き受けて下さったのです。実際にこの世の悪をことごとく罰し、正義と平和をこの世にきたらせる御業は、イエス様がもう一度この世に来て下さる時、即ち「主の再臨」の時まで引きのばされました。このことはヨハネでさえ、戸惑うような事柄だったのです。けれども、もしヨハネが考えていたような裁きが、この時なされていたのなら、それに耐えうる人が果たしていたでしょうか。きっと、皆、滅ぼし尽くされていたに違いありません。それほどまでに人間の罪は重いのです。神の子イエス・キリストが罪を贖って下さらなければ、私たちは誰一人として神様の裁きの前に立つことなど出来ない。イエス様は、私たちが全く想像もつかないような仕方で、救いの御業を成し遂げて下さったのです。
第二次世界大戦中、ナチスドイツの手によってユダヤ人の大量虐殺が行われました。そんなある日、ある収容所で子供の処刑が行われました。絞首刑です。大人であれば体が重いですから、すぐに首が絞まって死んでしまいます。ところが、その子はまだ幼い子供ですから、体重が軽くて、なかなか死ねません。長い間、苦しんで苦しんで、ようやく死ねたかと思うと、またピクピクと痙攣し始める。もう見てはいられない。その壮絶な光景を見て人々はこう叫びました。「なんてむごいことを。神は何をしておられるのか!何故、眠っておられるのか!」と。すると、ある牧師はこう言ったそうです。「いや、神は眠っておられるのではない。あの子をしっかりと見なさい。あの子の中にこそキリストがおられる。あの子と一緒にキリストは苦しんでおられる。あの子と一緒にキリストは死んで下さった!あの子の中にキリストの十字架が見えないか!」と。
この世には、目を覆いたくなるような悲惨な出来事が沢山起こります。「何故、こんなことが起こるのか?!神は本当に生きておられるのか?!」と言いたくなるようなことが、私たちの身の周りでも沢山起こります。けれども、そこで私たちがしっかりと見つめなければならないことは、その悲惨な出来事の中に、キリストの十字架を見出す、ということです。私たちがキリストを十字架に追いやった罪は、こんなにも卑劣で汚れた罪であった、ということです。にもかかわらず、たとえそれがどんなに悲惨な出来事であったとしても、もうそこには神の怒りや呪いはありません。何故ならば、キリストがその悲惨な出来事の中で、神の怒りと呪いを一身に受けて、死んで下さったからです。これがキリストの十字架です。あなたは、このキリストの十字架に、つまずくでしょうか。
「おめおめと十字架の上で惨めな死を遂げるような者がどうして救い主と言えようか?!」これが世の常識でありましょう。けれども、私たちが苦しみや悲しみの中で、傷を負い、呻き苦しんでいる時に、本当に慰め、癒してくれるのは、自ら傷を負う救い主をおいて他にないのではないでしょうか。イエス・キリストは自ら傷を負い、私たちと同じ所まで降りてきて下さいました。私たちと同じ罪人の一人に数えられ、私たちが苦難の中で苦しむ以上に苦しみ、その痛みを味わい、私たちの罪を一手に担って死んで下さったのです。しかも、ただ同じところに立ち、苦しみを共にして下さるだけではなくて、十字架の死に打ち勝ち、甦って下さったお方として、その傷を完全に癒すことの出来るお方として、私たちのところに来て下さったのでした。そのお方が、今、私たちと共にいて下さいます。「あなたの痛みは知っている。苦しみは知っている。悲しみは知っている。あなたが今くじけそうになっている弱さも知っている。大丈夫。私があなたの弱さや破れや失敗、罪や背きを全部十字架の上で担った。悲しみや苦しみや痛みの背後にある神の怒りと呪いを全部私が担った。もうあなたには神の怒りや呪いは向けられない。あなたも立ち直れる。安心して行きなさい!」このように主は優しく励まして下さるのです。これが私たちの救い主イエス・キリストです。どうか、この柔和なイエス・キリストに、つまずかないでいただきたいと思います。