日曜朝の礼拝「神の報い」

日本キリスト改革派 吹田市千里の教会ホームページへ戻る

問い合わせ

神の報い

日付
説教
吉田謙 牧師
40 あなたがたを受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れるのである。・・・ 42 はっきり言っておく。わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。
マタイによる福音書 10章40節-11章1節

40節のところには、イエス様によって遣わされた私たちを受け入れる人は、イエス様を受け入れることになり、それはひいてはイエス様を遣わされた神様を受け入れることになる、と言われています。何という光栄でしょうか。しかも、その私たちを受け入れる受け入れ方は、凄いことが求められているのではありません。42節のところには、「水一杯の親切でよい」と言われているのです。

 この御言葉は、本当に慰め深い御言葉ではないかと思います。私たちに水一杯を提供するという小さな好意を示してくれるならば、神様はそれだけで、その人を報いて下さる、と言うのです。こんな罪深く、欠けだらけの私を、神様はそれほどまでに大切な存在として受けとめておられるのかと、この御言葉を読む度に、私は大きな驚きを覚えます。また、それと同時に、私たちの周りにいる人たちに対する神様の優しい眼差しに、あらためて深い感謝を覚えるのです。私たち信仰者に、水一杯を提供するという、ほんの小さな好意を示してくれるならば、神様はそれだけで、その人を報いて下さる、と言われているのですから。

 では、「報いて下さる」とは、具体的にはどういうことでしょうか。41節のところには、こう言われています。「預言者を預言者として受け入れる人は、預言者と同じ報いを受け、正しい者を正しい者として受け入れる人は、正しい者と同じ報いを受ける。」

 ここで言う「預言者」とか「正しい者」という言葉は、「伝道に遣わされた者」の言い換えであり、私たちクリスチャンのことを指しています。つまり私たちを受け入れる者は、私たちが神様からいただく報いと全く同じ報いを受けることが出来る、と言われているのです。例えば、私たちの愛する家族が、私たちに対して水一杯の好意を示してくれたとします。そうすると、それだけで私たちの家族は、私たちが神様からいただく報いと全く同じ報いを受けることが出来る、つまりイエス様のもとにある「まことの命」にあずかることが出来る、と言うのです。これは凄いことですね。もう私たちは、愛する者たちの救いについて思い煩う必要はありません。まだ信仰を持っていない人々が、ほんの少しでも私たちに好意を示し、助けてくれるならば、あるいは私たちの愛する家族が、私たちの信仰生活を妨げずにいてくれるならば、それだけで私たちは大いに喜んでよい、そこに神様の恵みの印を見てよいのです。

 パウロは彼の手紙の中で、「妻がイエス様を信じているならば、信じていない夫も聖なる者とされている」と言いました。また「夫がイエス様を信じているならば、信じていない妻も聖なる者とされている」と言いました。また「親がイエス様を信じているならば、まだ何も分からない子供たちも聖なる者とされている」と言いました。コリントの信徒への手紙一7章14節です。私が家族の中で救われているというのは、私の家族が神様から見捨てられていないことのしるしです。神様を信じる私たちが、この町に建てられた教会に集っているというのは、この町が神様から捨てられていないことのしるしです。また私が友人たちとの交流があるというのは、その友人たちに神様の恵みが差し伸べられていることのしるしなのです。そういうわけで、私たちが救われたということには、本当に大きな意義があるのです。

 私たちは、伝道という課題の前で、自分の小ささに怖じ気づく必要はありません。そんなことは最初から分かり切っていることです。イエス様もそのことをちゃんとご存知でした。今日の箇所の42節のところでイエス様は、「この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける」と言われました。「この小さな者」という言葉は、「ミクロン」という言葉です。この「ミクロン」という言葉は、既に日本語にもなっていますから、皆様もよくご存じではないかと思います。例えば、長さを表す単位として、1ミリの千分の一を表す単位に、このミクロンが使われています。あるいは「ミクロの世界」という言葉もありますね。本当に小さい、顕微鏡で見なければ分からないような微生物の世界をいう言葉です。このように、ミクロとかミクロンという言葉は、極々僅かな長さや大きさを表す言葉として既に日本でもよく使われている言葉なのです。私たちは、本当に取るに足りない、将にミクロン、小さな小さな者たちです。けれども、それでよいのです。「小さい」と言って嘆く必要はありません。私たちは小さくても、その小さな私たちを神様が豊かに祝福して下さいます。そして、その神様の豊かな祝福が私たちの周りの人たちにも自然と及んでいくのです。小さな者たちが、それぞれ遣わされた場所で、ひるむことなく、また腐ることもなく、まず自分自身の信仰をしっかりと握りしめて生きる時に、神様はその小さな私たちを用い、伝道を力強く推し進めて下さいます。どんなに絶望的な状況が目の前に横たわっていたとしても、私たちに差し伸べられた神様の恵みは、小さな土の器である私たちを用いて、もっともっと広がっていくはずであります。

 この日本という国においては、クリスチャンは1%にも満たない少数派です。キリスト教は日本には根付かないのではないか、とさえ言う人たちもいます。しかし、たとえ僅かなクリスチャンであったとしても、しかも、その一人一人が小さな小さな存在であったとしても、日本の救いはそこから始まるのです。あるいは、あなたは家族や職場の中で、たった一人のクリスチャンなのかもしれません。けれども、本来ならば真っ先に見捨てられて当然のような小さな私たちが、既に神様のもとにいるのです。そうであるならば、そのような私たちの存在は、将に神様は私の家族や友人の救いを諦めておられない、ということの明確なしるしではないでしょうか。

礼拝に来てみませんか?

千里摂理教会の日曜礼拝は10時30分から始まります。この礼拝は誰でも参加できます。クリスチャンでなくとも構いません。不安な方は一度教会にお問い合わせください。

ホームページからでしたらお問い合わせフォームを。お電話なら06-6834-4257まで。お電話の場合、一言「ホームページを見たのですが」とお伝えくださると、話が伝わりやすくなります。