日曜朝の礼拝「真の平和」

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真の平和

日付
説教
吉田謙 牧師
34 わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。」
マタイによる福音書 10章32節-39節

イエス様は、「私が地上にもたらすのは、平和ではなく剣(つるぎ)だ」と言われました。勿論、イエス様は、無用の争いや戦争を勧めておられるわけではありません。そうではなくて、事なかれ主義の平和を私は望まない、と言われたのです。イエス様は、何よりも平和を望まれましたが、それは正義や真理を犠牲にするような、うすっぺらな平和ではありませんでした。このことは、イエス様の生き方によーく現れていたと思います。イエス様は、罪人や汚れた者と烙印を押され、社会の片隅でひっそりと生きていた人々のところへ自ら進んで出かけて行っては、彼らと一緒に食事をし、彼らを慰め、励まし、救いの御手を差し伸べられました。けれども、その同じイエス様が、ユダヤ人たちから尊敬されていたファリサイ派の人々や律法学者たちに対しては、一転して非常に厳しい態度で望まれたのです。何故でしょうか。それは、彼らの罪に対する意識が薄かったからです。彼らの教えや行いが間違っていたからであります。イエス様は、真理や正義を曲げ、妥協して平和を造り上げたのではなくて、真理や正義を徹底して貫き通されました。その結果として分裂が生じたのです。これは、まことの平和を造り上げていくために、つまり神様との平和を造り上げていくために、どうしても通り抜けなければならなかった道筋だったのです。

 35節以下には、そのことが具体的に語られています。「わたしは敵対させるために来たからである。人をその父に、娘を母に、嫁をしゅうとめに。こうして、自分の家族の者が敵となる。」

 これは、旧約聖書のミカ書7章6節の引用です。このミカ書7章は、イスラエルが、主なる神様を忘れて、罪と腐敗に沈んでいるその報いとして、一番信頼している家庭にまで混乱が起こり、誰も信頼できないような時代がやってくる、ということが預言されている箇所です。イエス様は、この旧約聖書の御言葉を引用しながら、せっかく待望していた「平和の君」メシアが訪れたというのに、それを認めようとしない社会は裁かれ、最も親しい家庭内にも不和と分裂が起こるだろう、と言われたのでした。

 この箇所は、キリスト教を非難する人たちがよく用いる箇所です。「だからキリスト教は家庭の平和を乱すのだ!」と批判するのです。しかし、この箇所は、クリスチャンが、信仰をもっていない家族に対して対抗する権利があるとか、そうならざるを得ないことを教えているわけではありません。むしろ私たちは、まだ信仰が与えられていない家族を愛し、仕え、祈り、犠牲を払うべきでしょう。謙遜の限りを尽くし、家族の一致を保つように努力すべきです。その時に、私たちのそのような行いを通して、家族にも救いが及んでいくのです。これが聖書が約束していることです。けれども、それは、私たちが家族に調子を合わせて妥協することとは違います。家族か神様か、という二者択一が迫られた時には、迷わず神様を選ばなければなりません。それが結局は、家族の救いにつながっていくからです。しかし私たちは、よくその反対のことをしがちではないかと思います。日頃は、キリスト教的良識によって、家族を簡単に批判し、バッサバッサと裁いているのです。しかし、今こそ神様を選び取らなければならないという肝心な時に、神様ではなく家族を選んでしまう、そういうことが多いのではないでしょうか。むしろ私たちは、日頃は家族を愛し、家族に仕えながら、いざという時には神様を選び取るという信仰を身につけていかなければなりません。

 イエス様が実現された平和は、私たちが考え、実現しようとする平和とは大きく食い違っていました。私たちは、争いや対立において、その争いを避けるか、あるいはその争いの中に身を投じ、その中で自分の主張を通すか、あるいは相手の主張との折り合いをつけるか、そういう仕方で平和を実現しようとします。けれども、イエス様はそのどれでもない、全く別の仕方で平和を打ち立てて下さったのです。それは、相手の敵意をご自分の身に引き受けて死なれるということ、つまり敗北することによってでした。しかもその敗北の中で、敵を怨むのではなくて、赦すのです。このように神の子イエス・キリストは、ご自分がその責任を全部背負う仕方で、私たちの内に平和を造りだして下さったのでした。

 私たちは、このイエス・キリストの十字架の愛を身に受けた者として、世と対立することがあります。しかし、この対立は、憎しみが憎しみを増殖させていくような対立とは全然違います。私たちは、その敵意を真正面から引き受け、赦すことによって、それを乗り越えていくのです。けれども、そんなことが果たして私たちに出来るでしょうか。私たちの実力からすると、それは到底不可能だ、と言わなければなりません。けれども、私たちが神様に敵対し、自分勝手に生きていた時に、イエス様は、「父よ、彼らをお許し下さい。自分が何をしているのか知らないのです」と祈りながら、黙って私たちの罪を全部背負って十字架の上で死んで下さいました。このイエス様の十字架の愛を味わい知った者は、たとえその人自身に実力がなくても、神様ご自身がその人をイエス様に似る者へと少しずつ造り変えて下さるのです。

 このように世界の平和は、一人の人がイエス様に似る者、神の子となることから始まるのではないかと私は思います。世界中にイエス様に似る神の子が満ちる時に、あらゆる分裂や敵意を乗りこえて、真実の平和が実現していくのです。

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