あなたがたを遣わす
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- 説教
- 吉田謙 牧師
16 わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ。だから、蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい。
マタイによる福音書 10章16節-23節
千里摂理教会の日曜礼拝は10時30分から始まります。この礼拝は誰でも参加できます。クリスチャンでなくとも構いません。不安な方は一度教会にお問い合わせください。
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この16節の御言葉は、直接的には迫害についての言及です。しかし、ただそれだけではなくて、これは私たちを伝道の場へと送り出される時のイエス様のお心を伝えているのではないかと思います。私たちが伝道の場へと送り出される時に、私たちは立派な、力ある人間として送り出されるわけではありません。私たちは、狼の群れの中に送り出される羊のように、全く無力な人間として送り出されるのです。伝道しようとしても、私たちにはその力がありません。私たちは、神様の言葉を一言語ったならば、こちらの方が傷ついてしまうような無力な人間なのです。友人や家族に伝道する時に、傷つくのは友人や家族ではなくて、私たちです。伝道するということは、反発を受けること、非難を受けること、嫌がられることです。そして、そういう非難や反発に対して、私たちは自分を防ぐ術がありません。このように私たちは、まるで狼の群れに羊が送り込まれるようにして派遣されるのです。
これは、一見、とても悲観的な物の見方のようにも思えます。しかし、よくよく考えてみると、この御言葉は、私たちを伝道へと促す御言葉ではないかと私は思います。私たちは人々から反発されたり、非難されたりする時に、「自分は失敗してしまった」と思わなくてよいのです。そもそも伝道するというのは、それが当たり前のことなのですから。家族や友人に伝道する時に、私たちは無視されたり、断られたりすることがあります。そういう時に、私たちはよく自分を責めることがあるのです。「自分に魅力がないからではないか」、「自分の信仰がまだ成熟していないから駄目なのではないか」と。訪問した町々村々で迫害された弟子たちは、将にそう感じたのではないでしょうか。しかしイエス様は、弟子たちを派遣するに当たって、最初から「そうではないのだ!」と教えてくださいました。「私自身あなた方をそういう仕方で遣わしているのだから、当然、あなた方は反発や非難を受けることになるだろう」と言われたのです。伝道が失敗した時に、私たちは、「どこがまずかったのだろう」、「自分に何か問題があったのではないか」とあれこれと考えるのかもしれません。けれども、本来、伝道とは、そういうものなのです。
パウロは、伝道する自分について、このように言いました。「わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために。」(第二コリント4:7)。私たちは福音を運ぶのですが、この私という器は土の器であり、本当にもろく、価値がありません。けれども、神様はそういう土の器に、福音という素晴らしい宝を盛って下さいました。それは何故かと言うと、私たちの立派さを通して福音の素晴らしさが現れるためではなくて、そこに盛られている福音そのものの素晴らしさが鮮やかに現れるためなのです。そのために神様は、あえて土の器である私たちに福音を盛って下さったのでした。ですから、あまり肩に力を入れる必要はありません。また伝道が進まないからと言って、自分を責める必要はないのです。
ただし、これには一つの注意事項があります。16節後半。「だから、蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい。」
これが狼の群れの中に送り込まれる羊たちが、心に刻むべき注意事項です。「蛇のように賢くありなさい!」と言うのです。多くの聖書注解者が、これはむやみに殉教したがる冒険主義者に対する忠告の言葉である、と解説しています。一つの町で迫害されたなら、無理して玉砕するよりも、そこで身を引く賢さを身につけるように、と言うのです。しかし、「賢さ」、「知恵深さ」という言葉を聞く時に、私たちが第一に思い起こすことは、そうやって上手に判断することとは少々違うのではないかと私は思います。旧約聖書の預言者たちは、イスラエルが自分の軍事力に頼ることを「愚かである」と言いました。あるいは、エジプトやアッシリアと同盟を結んで国の安全を図ろうとした時に、「それは愚かである」と言いました。「賢い」というのは、旧約聖書の時代には、「主を畏れる」とか「主に頼る」ということだったのです。ですから「蛇のような賢さ」とは、旧約聖書に基づいて考えるならば、やはり上手に切り抜けるような賢さとは違うのだと思います。自分の力や知恵で様々な問題を切り抜けるのではなくて、神様が全てを支配し、守っておられる、神様がこの自分をその場所で用いて下さる、そのことを見抜く賢さが必要なのだ、ということでしょう。つまり、伝道する私たちには、自分の力に頼ろうとする誘惑を見抜き、それを避ける賢さが必要なのです。
19節には、このように言われています。「引き渡されたときは、何をどう言おうかと心配してはならない。そのときには、言うべきことは教えられる。実は、話すのはあなたがたではなく、あなたがたの中で語ってくださる、父の霊である。」
こういうお方に頼るのがクリスチャン流の賢さです。人間の力に頼るのは愚かであり、神様が一切を導いて下さることに信頼するのが、本来の賢さと言えるでしょう。
また「鳩のように素直になりなさい」とイエス様は教えられました。この「素直に」という言葉は、「混じり気がない」とか「純粋な」という意味の言葉です。結局、これは、先程の「蛇のように賢い」というのと同じことを語っているのです。神様だけに頼る混じり気のない純粋さが私たちには必要です。自分で自分を守ろうと躍起になって理論武装する必要はありません。語るべきことはすべて神様が教えて下さいます。すべて聖霊が語って下さるのです。このことについての信頼が伝道する者にはどうしても必要です。
福音の宝が私たちの内に盛られています。私たち自身は、反発や非難を受けると、すぐに挫けてしまうもろい土の器なのです。けれども、主は「それでよい」と言われます。大切なのは、そこに盛られている福音です。器である私たちはまことに弱い者たちですが、そこに盛られている福音自身に力があるのです。この信頼にかたく立つならば、主は土の器に過ぎない私たちであっても不思議な仕方で用いて下さいます。