クリスマスの恵み
- 日付
- 説教
- 吉田謙 牧師
8 その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。9 すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。10 天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。11 今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。12 あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」
ルカによる福音書 2章8節-20節
千里摂理教会の日曜礼拝は10時30分から始まります。この礼拝は誰でも参加できます。クリスチャンでなくとも構いません。不安な方は一度教会にお問い合わせください。
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聖書は、人の価値や尊さは、人間の評価によって決まるものではない、と教えます。聖書は、神様がこの世界の全てのものを造り、その中でも、私たち人間を神様ご自身の性質に似せた者として、全く自由で人格ある特別な存在として造られ、特別な愛の交わりの中に置いて下さった、と教えます。つまり、人間を造られた神様が、私たちのことをあるがままで受け止め、尊く、価値ある存在として愛して下さるのです。美しいから愛する、何かが出来るから愛するというのではなくて、神様は私たちの存在そのものを愛して下さいます。聖書は、ここに人間の価値の土台があるのだ、と教えているのです。
ところが残年ながら私たち人間は、せっかく神様から尊く、価値ある存在として造られたにもかかわらず、神様から与えられた自由な意志を乱用してしまい、造り主なる神様から離れてしまいました。清く正しい造り主なる神様から離れてしまったので、人間は本来の輝きを失い、むしろ堕落し、罪をはらむ存在となってしまった、と聖書は教えているのです。
そもそも、この「罪」という言葉のもともとの意味は、引いた矢が的をはずすことを意味します。的をはずす生き方をしていながら、それに気づいていない。自分は的をはずしていないと言い張る。それこそが根源的な罪なのだ、と聖書は言うのです。それでは私たちの生き方が「的はずれ」にならないために、目指すべき的とはいったい何でしょうか。宗教改革者の一人であるカルヴァンという人は、「神を知り、神を礼拝する喜びを知らない人は人間ではない」と言っています。私たちは「神を知り、神を礼拝する」ために神様から造られました。その私たちが造り主である神様を忘れ、神様以外のものを拝むならば、それは将に的はずれな生き方をしている、ということになるでしょう。聖書は、それこそが根源的な罪であり、そのような生き方の中から、諸々の罪が生まれてくるのだ、と言うのです。「あいつさえいなければ」と思い、心の中で人を抹殺してしまう。人が見ていないからと言って手をぬいたり、ごまかしたり、嘘をついたりしてしまう。色んな汚(けが)れや色んな醜さが、人にはそれぞれあると思います。それが、神様から離れて生きる生き方から産み出される諸々の罪の中身です。警察に捕まるような犯罪も、勿論、罪ですが、たとえ実行しなくても、心の中で考えるだけでも、神様から見れば、それも明らかな罪なのです。私たちを造られた神様は正義の神様ですから、たとえどんな小さな罪であっても、罪は罪として、決してうやむやにはなさいません。罪は必ず罰せられなければならないのです。けれども、神様は同時に愛の神様でもあります。私たちがどんなに罪深くても、どんなに汚(けが)れていても、私たちの思いが今は神様に向いていなくても、神様は私たちのことを掛け替えのない尊い存在として受け入れ、愛し抜いて下さいます。神様は、この愛と正義を貫くために、本当に大きな犠牲を払って下さったのです。それは、私たち自身が罪の償いをするのではなくて、全く罪のない神の独り子であるイエス・キリストが、私たちの身代わりとなって、十字架の上で私たちの罪を全部償って下さる、というものでした。神様は私たちの救いのために、一番大切にしていた独り子の命をも献げて下さったのです。それほどまでに神様は、私たち一人一人のことを愛して下さったのでした。この神様の大きな大きな愛の第一歩が踏み出された日、暗闇のこの世界に光そのものであるイエス・キリストがお生まれになった日、それがクリスマスです。
あのクリスマスの夜に、この神様の愛が明らかにされました。野宿していた羊飼いたちに、この喜びの知らせが真っ先に届けられた、と言うのです。当時の羊飼いというのは、一般の人々からは卑しい身分の者と思われていました。特別な教養がなくても羊飼いにはなれましたし、現に羊飼いの中には職にあぶれた「ならず者」が少なからずいたようです。彼らは人々から「神様から見捨てられた者」と決めつけられ、軽蔑され、社会の片隅でひっそりと暮らすしか術がなかった人たちです。いてもいなくても、どうでもいい存在。それが当時の羊飼いたちの置かれていた社会的立場でした。そういう羊飼いたちに、「あなたがたのために救い主がお生まれになった」という知らせが真っ先に届けられたのです。これは、イエス・キリストのもたらす救いが、どういう救いであるのか、どういう人々に与えられる救いなのかをよく表していると思います。イエス・キリストの救いは、呼び求める全ての人々に提供される救いです。地位や名誉や学歴や資質には全く関係ありません。たとえ人々からどんなに冷たく扱われていたとしても、人々からは全く存在価値が認められていなくても、このイエス・キリストの救いから漏れることは決してありません。これがクリスマスのメッセージです。
御使いは羊飼いたちにこう言いました。「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。」と。「今日、あなたがたのために救い主がお生まれになった!」これは決して他人事ではありません。今、生きることに空しさを覚えておられる方々。暗闇の中で、誰もこんな苦しみなど分かってくれないと孤独を感じておられる方々。重い病や肉体の衰えに不安を覚えておられる方々。毎日の生活に疲れを覚え、嫌気がさしておられる方々。様々な問題を抱えて、今将に八方ふさがりの方々。そういうあなたを救うために、そういうあなたを喜びで満たすために、そういうあなたが、あなたらしく輝いて生きることが出来るように、イエス・キリストはこの世にお生まれになりました。このことを今日、あなたが心を開いて受け入れるならば、その時、本当のクリスマスの喜びが、あなたにもきっと与えられるでしょう。