日曜朝の礼拝「平和の使者」

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平和の使者

日付
説教
吉田謙 牧師
7 行って、『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい。・・・・ 9 帯の中に金貨も銀貨も銅貨も入れて行ってはならない。10 旅には袋も二枚の下着も、履物も杖も持って行ってはならない。・・・・ 12 その家に入ったら、『平和があるように』と挨拶しなさい。
マタイによる福音書 10章5節-10節

弟子たちは、伝道旅行に遣わされるにあたって、イエス様から何を宣べ伝えるようにと教えられたのでしょうか。7節のところには、「『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい」と言われています。「天の国」とは、「神の国」を遠回しに言う言い方です。イスラエルの人々は、十戒の中で「神の名をみだりに唱えてはならない」と命じられていましたから、「神様」とあからさまに言うことを避ける傾向にありました。それで彼らは「神様」と言う代わりに、「天」という言葉をよく使ったのです。また「国」という言葉は、場所を表すというよりも、むしろ神様が支配する出来事を言い表していました。ですから「天の国が近づいた」というのは、「神様が支配して下さる時がやってきた」、「神様が私たちの王となり、私たちを治めて下さる時がきたのだ!」という意味なのです。

 今、多くの人々が色んなものに支配されて生きています。病気に支配されながら生きている人がいます。病気であることが、その人の人生を決定づけているのです。あるいは死に支配されて生きている人がいます。死への恐れが、その人の人生を決定づけているのです。あるいは罪に支配されて生きている人がいます。罪深い思いによって、その人の生きる姿勢が歪められているのです。このように私たちの人生は、様々なものによって支配されていて、本当に危なっかしい人生であるかのように思えます。けれども、私たちの人生は、本当にそのような得体の知れないものに支配されているのでしょうか。決してそうではありません。私たちの人生は、気まぐれな人間の手や予想もつかない運命の手に握られているのではなくて、私たちを愛し、私たちのためにご自分の独り子をも惜しまずに与えて下さった、この主なる神様が握っておられるのです。

 12節には、弟子たちが遣わされて行った先で何をなすべきかが教えられています。「その家に入ったら、『平和があるように』と挨拶しなさい。」

 この「平和があるように」という言葉は、ユダヤの言葉に直すと「シャローム」という言葉です。これはイスラエルの普通の挨拶の言葉です。おそらく、世間一般の人たちは「こんにちは」という軽い気持ちで「シャローム」と言ったのでしょう。けれども、ここでは、決してそういう軽い挨拶の言葉ではなくて、その家に入ったなら、本気になって「平和があるように」と挨拶しなさい、と言われているのです。これは、イエス様の意識としては、先程の「天の国は近づいた」と言うのと、ほぼ同じことを言っているのではないかと思います。神様以外の色んなものに支配されている人は、いつも恐れたり、苛立ったり、絶望したりしなければなりません。平和がないのです。神様が私の心の王座について下さらなければ、本当の平和はありません。ですから、「平和があるように」という挨拶の言葉は、本当は「天の国が近づいた」からこそ語ることの出来る言葉です。「天の国は近づいた。これからは得たいの知れない物があなたの人生を支配するのではなくて、主なる神様があなたの人生を支配して下さる。だから安心しなさい。あなたには平和が訪れる!」これは、こういう神様の支配のもとで生きる者たちの「平和を宣言する言葉」なのです。

 またイエス様は、伝道する弟子たちの身支度についても教えられました。9節。「帯の中に金貨も銀貨も銅貨も入れて行ってはならない。旅には袋も二枚の下着も、履物も杖も持って行ってはならない。」

 弟子たちは、これから旅をするのです。それにしては、これはあまりにも心細い身支度でありましょう。わざわざこのような状況を作りだして、彼らを派遣したイエス様の真意は、いったいどこにあったのでしょうか。杖も袋もパンもお金も持たず、着替えの下着も持つことなく旅をするというのは、生活の最も基本的なものでさえ、周囲の人々の世話にならなければならない、ということです。イエス様は、弟子たちが助けを必要とする弱い者として、村に入ることを求められました。言い換えるならば、強い人間が弱い人間を助けるかのように、あるいは上の者が下の者に何かを教えるかのように、弟子たちが村々に入っていくことを、主はお許しにならなかった、ということです。

 他者に仕えることを喜びとする人は、往々にして受ける側に身を置くことを嫌います。与える側だけに身を置こうとするのです。けれども、そこには大きな落とし穴があります。あるボランティア団体の集まりの中で、多くの方々が「私は人のお世話にはなりたくありません」と言っておられたそうです。これはおかしなことですね。与える側にばかり身を置きたがる人は、本当の意味で、人と共に生きることができません。その人は同じ人間として、同じ目線に立って、他者と大切なものを分かち合うことができないのです。そもそもイエス様は、人々と全くかけ離れた高貴なお方として、私たちのもとに来られたのではありませんでした。天の栄光を捨てて、人間の最も底辺にまで身をかがめ、人間が味わうべき苦しみや悲しみの全てを味わい尽くして下さったのです。それは私たちに寄り添い、私たちの目線に立って、必要な慰め、励まし、助けを差し出すためでした。これがイエス様の愛し方です。このイエス様の愛を伝えるためには、まずそれを伝える私たち自身も、自分の能力や地位やプライドを捨てて、ただその愛すべき人たちに寄り添い、共に歩む、ということが必要不可欠なのです。イエス様は、そのことを、この宣教旅行を通して、弟子たちに教えようとされたのでした。

 また、イエス様がこんなにも心細い身支度で弟子たちを送り出されたのは、自分たちの力に頼るのではなくて、主に委ね切ることを教えるためでもありました。要するにイエス様は、あれやこれやと思い煩うのではなくて、神様を信頼し、神様は必ず最善の時に、最善の方法で、最善のことをして下さるに違いないと信じ、安心して歩んでいくことの大切さを教えようとされたのです。

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