十二人の使徒たち
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- 説教
- 吉田謙 牧師
2 十二使徒の名は次のとおりである。まずペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレ、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネ、3 フィリポとバルトロマイ、トマスと徴税人のマタイ、アルファイの子ヤコブとタダイ、4 熱心党のシモン、それにイエスを裏切ったイスカリオテのユダである。
マタイによる福音書 10章1節-4節
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ここでは、十二人の弟子たちのことが十二使徒と言われています。この「使徒」という言葉には、「派遣された人」とか「全権大使」という意味があります。「全権大使」、例えば国と国が条約の交渉をする時に、相手側の言うことをいちいち自分の国に持ち帰って協議していたのでは、時間がかかって話になりません。ですから、そういう場合には、全権大使に交渉の権限の一切を委ねるのです。それが全権大使です。つまり、全権大使というのは、その国のトップの代理人ということなのです。ここで十二人が「使徒」として、イエス様から任命されたというのは、イエス様の全権大使として、つまりイエス様の代理人として任命された、ということでしょう。しかし聖書に登場する「使徒」という名称には、もっと深い意味があります。「使徒」とは、ある特別な使命を委ねられた「選ばれた弟子たち」のことなのです。では、彼らにはどういう特別な使命が委ねられたのでしょうか。それは、一言で言うならば、「キリストの十字架と復活を証言する使命」です。キリストが十字架につけられ、三日目に甦ったことを、命をかけて証言するのです。彼らは、そのために立てられました。勿論、選ばれた彼ら自身は、そのことの意味を最初から理解していたわけではありません。彼らは、イエス様が十字架にかかり、三日目に甦った時に初めて、自分たちに託された使命がいかに大きなものであったかを知ったのです。まだこの時、本人たちは、託された使命の重大さに気づいていません。しかし、この時、確かに、そのような大きな使命を担った十二人の使徒たちが、弟子たちの中から選び出されたのです。
では、そのような重要な役割を担う「使徒」を、イエス様はどのような基準で選ばれたのでしょうか。ここでは、イエス様が、「十二人を呼び寄せた」としか語られていません。例えば、スポーツのチームを作ろうとするのであれば、確かに監督が「これ」と目を付けた人を選びます。そこでは、選ばれる人の側にも確かな根拠や理由が当然あるのです。優れた身体能力が評価されることもあるでしょう。チームであれば、チームワークの中でそれぞれに期待される働きがあると思います。例えばバレーボールであれば、上手にトスを上げるセッターが必要です。強力なスパイクを繰り出せる人を右に左に配置します。どんなスパイクでも拾いあげるレシーブ専門のリベロも重要です。そうやって選手の能力や性格に基づいて、選別された強いチームが作られていくのです。そこでは、力のない人や力を十分に発揮できない人、怪我などの故障のある人はどんどん切り捨てられていきます。つまり、スポーツのチームは、ゲームに勝つという目的のために選び抜かれたエリート集団なのです。これは決してスポーツの世界だけの話ではないでしょう。色んな分野にも当てはめることができると思います。しかしイエス様が弟子たちをお選びになった時の根拠は、何も記されていません。ただ一方的にイエス様が望まれただけなのです。選ばれた側には何の理由も根拠もありません。何か難しい試験にパスしたとか、雄弁な人たちであったとか、社会的に影響力の大きい人とか、特に信仰深い人たちであったというわけでもないのです。そればかりか、何の共通点もないような、実に雑多な人たちがここでは選ばれています。
2節以下には、選ばれた人たちの名前が列挙されています。彼らを一人一人詳しく分析していくと、とんでも無い顔ぶれであったことが分かります。人間的な思いで判断するならば、全く見込みがなく、絶望的です。いつも問題ばかり起こし、いつかは空中分解してしまうのではないか、と言いたくなるような群れです。けれども、私たちは知っています。このとんでも無い群れによって、今、世界中に広がっているキリストの教会の土台が据えられた、ということを。イエス様は、この問題が山積する群れを土台として選ばれました。そして、この群れをご自分のすぐそばに置き、寝食を共にしながら、少しずつ少しずつ造り変えて下さったのです。
彼らは、イエス様の弟子になって、いきなり立派になったわけではありません。結局、彼らは、イエス様が死ぬ寸前まで、相変わらず愚かで弱い弟子たちだったのです。けれども彼らは、イエス様が十字架で死なれる一部始終を見ていました。そして十字架の後には、復活のイエス・キリストに出会ったのです。その時に弟子たちは、あのイエス・キリストの壮絶な十字架の意味が、やっと分かったのでした。十字架に死なれたのは神の子であった。あの恐ろしい仕方で苦しまれたイエス・キリストの苦しみは、他でもない私を救うための苦しみであった。あの十字架の上で叫ばれた魂の恐怖の叫びは、本来、私が叫ばなければならない叫びであった。それをあのイエス・キリストが、私たちの身代わりとなって、全部その身に引き受けて下さったのだ、この信仰の中心点がやっと分かったのです。そして、ただ分かっただけではなくて、そのお方が今も生きておられ、世の終わりまで、いつも自分たちと共に歩んで下さるという、この途轍もなく大きな恵みを、彼らは、この後もずっと味わい続けることが出来たのでした。このことによって弟子たちは、決定的に変えられていったのです。
このように十字架にかかり、復活なさったイエス様は、一人一人を全く変えることの出来るお方であり、今でも変えることの出来るお方です。私たち一人一人も、今、こうしてイエス様のそばに置いていただきながら、罪深い嫌な自分から少しずつ変えられていく聖化の道筋を、実際に歩んでいるのではないかと思います。