日曜朝の礼拝「収穫の主に願いなさい」

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収穫の主に願いなさい

日付
説教
吉田謙 牧師
36 群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。37 そこで、弟子たちに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」
マタイによる福音書 9章35節-38節

私たちはなぜ伝道するのでしょうか。今日の箇所の36節のところには、まずその理由として、イエス様の深い憐れみが指摘されています。36節。「また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。」

 この「深く憐れまれた」という言葉は、日本語には非常に訳しにくい言葉が使われています。福音書は、この言葉を神様やイエス様にしか用いていません。つまり、これは「憐れむ」という日本語では到底言い尽くし得ない、神様特有の感情なのです。もともとこの言葉は、「はらわた」という言葉から派生してきた言葉です。日本語にも、内蔵の腸がちぎれると書いて「断腸の思い」という言葉があります。どちらかと言うと、この言葉はそれに近い言葉とも言えるでしょう。これは腹の底から突き上げてくるような、はらわたがちぎれんばかりの激しい感情を言い表す言葉なのです。

 イエス様が群衆をご覧になると、彼らは飼い主のいない羊のように、弱り果て、打ちひしがれていました。イエス様は、そういう彼らをご覧になり、はらわたがちぎれんばかりに心動かされ、深く憐れまれたのです。そして「伝道する者が起こされるよう祈りなさい」と弟子たちに命じられたのでした。私たちを伝道へと促す力は、このイエス様の深い憐れみにあるのではないかと思います。

昔のユダヤの国のように、緑と水の少ない国では、羊飼いがしっかりと世話をしなければ、羊たちは死ぬ他はありませんでした。牧草にありつくことも、水にありつくことも出来なかったのです。あるいはライオンやオオカミ等、猛獣が羊を襲うことも日常茶飯事でした。羊飼いがいなければ、羊は生き延びることが出来なかったのです。イエス様の目には、きっと群衆がそのような飼い主のいない羊のような惨めな姿に見えたのでしょう。こういう魂の状態は、イエス様にしか見えなかったのではないかと思います。

 この頃の地中海世界の人々は、「ローマの平和」という、ある平穏な時を過ごしていました。ユダヤの国はまだ氾濫があったり、揺れ動いたりすることも多々あったのですが、ユダヤ人たちは、ローマ帝国の支配のもとで、昔と比べたならば随分と過ごしやすい時代を生きていたのです。しかしイエス様は、そういう群衆の上辺ではなくて、魂をご覧になりました。その時にイエス様の目には、群衆がまるで、羊飼いがいない羊のような惨めな姿に見えたのではないでしょうか。本当は羊飼いを失い、死ぬ他はない危機的な状況にあったにも関わらず、群衆の方は、その惨めさには全く気づかず、暢気に生きていたのです。けれども、イエス様の目から見ると、彼らは皆、「飼い主のいない羊」であり、弱り果て、打ちひしがれて、本当に危機的な状況にあったのでした。

 私たちが、家族や友人の生活を見て、羊飼いのいない羊のように惨めであることを見抜くためには、まず私たち自身が、羊飼いのことをよく知っていなければなりません。毎日の生活が、神様の愛に包まれていて、死の時も、死の後も、神様が大きな愛で包み込んでいて下さることを知り、味わい知っている人だけが、魂が弱り果てている人の惨めさを見抜くことができるのです。そういうわけで、伝道への第一歩は、まず私たち自身が、この礼拝の中で、イエス様の恵みを豊かに味わい知ることから始まります。

 私たちは弱く、貧しい者たちですから、私たちに出来ることは限られています。しかし同時に、私たちにしか出来ないこともある。これも確かな事実でありましょう。では、私たちにしかできないこととは、いったい何でしょうか。それは、私たちの魂の羊飼いであり、救い主であるイエス・キリストを指し示す、ということです。私たちの教会が、あるいは私たち自身が、人を救うのではありません。私たちは、世の人々が魂の羊飼いであるイエス・キリストと出会い、イエス・キリストに捕らえられ、イエス・キリストによって救いへと導かれるために、しばらくの間、その人の手を取って一緒に歩むだけです。ただそれだけのことです。その後(あと)のことは、全部、イエス様ご自身が、その人の内に引き起こして下さるでしょう。ですから、私たちはたとえ小さな業であっても、決して卑屈になることなく、安心して、堂々とすればよいのです。

 私たち一人一人はキリストの体なる教会の部分部分です。ある人はキリストの手かもしれません。ある人はキリストの足かもしれません。ある人は目、ある人は耳、ある人は口かもしれない。皆それぞれの部分に相応しい違った働きがあるのです。ですから、皆、同じ働きをする必要はありません。手には手の働きがあり、足には足の働きがあります。皆それぞれの持ち場でキリストの体の一部分として懸命に仕えていけばよいのです。伝道ということを考える時にも、これと同じことが言えるでしょう。伝道は、このキリストの体なる教会全体に与えられた使命です。「伝道」は私には不向きだから、あの人この人がやってくれるだろう、といういい加減な考え方をしていては駄目なのです。何も目を見張るような大きな働きをしなければならないわけではありません。もしかすると、あなたに求められている働きは、人の目にはとまらないような小さな小さな働きかもしれない。けれども、それでよいのです。ある時、そのあなたの小さな働きがどうしても必要な時がある。そして神様がそのあなたの小さな働きを用いられる時に、その働きが一人の人の命を救うのです。私たちの内側で働かれるお方は、愛と力に満ち溢れた、無限であり、永遠であり、不変であり、完全であるお方です。たとえ私たちの働きが、人の目から見ると、ちっぽけな業にしか見えなかったとしても、私たちが心を込めて、精一杯のことをするならば、きっと神様は、その私たちの小さな業を大きく大きく用いて下さるでしょう。自分勝手な思いではなく、イエス様があなたという働き人を遣わしてくださるならば、必ず収穫はある、これがイエス様の約束です。

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