わたしにできると信じるのか
- 日付
- 説教
- 吉田謙 牧師
27 イエスがそこからお出かけになると、二人の盲人が叫んで、「ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」と言いながらついて来た。28 イエスが家に入ると、盲人たちがそばに寄って来たので、「わたしにできると信じるのか」と言われた。二人は、「はい、主よ」と言った。29 そこで、イエスが二人の目に触り、「あなたがたの信じているとおりになるように」と言われると、30 二人は目が見えるようになった。イエスは、「このことは、だれにも知らせてはいけない」と彼らに厳しくお命じになった。
マタイによる福音書 9章27節-34節
千里摂理教会の日曜礼拝は10時30分から始まります。この礼拝は誰でも参加できます。クリスチャンでなくとも構いません。不安な方は一度教会にお問い合わせください。
ホームページからでしたらお問い合わせフォームを。お電話なら06-6834-4257まで。お電話の場合、一言「ホームページを見たのですが」とお伝えくださると、話が伝わりやすくなります。
今日の盲人の癒しの物語を読む時に、彼らの熱心な信仰によって目が開かれたかのような印象を受けるのかもしれません。確かに彼らは、「ダビデの子よ、私たちを憐れんでください」と叫び続けました。この「ダビデの子よ」という呼びかけは、彼らの信仰をよく言い表しています。旧約聖書には、ダビデの家系からイスラエルのために一人の王様が現れるという約束が与えられていました。「見よ、このような日が来る、と主は言われる。わたしはダビデのために正しい若枝を起こす。王は治め、栄え/この国に正義と恵みの業を行う。」(エレミヤ書23:5)。この他にも旧約聖書には、ダビデの子孫から救い主が生まれるという約束が幾つも記されています。そのために、ユダヤ人たちは、長い年月(ねんげつ)に渡って王様である救い主を待ち望んできたのです。そして、この盲人たちは、イエス様の噂を聞いて、このお方こそ自分たちが久しく待ち望んできた救い主に違いない、といつしか信じるようになっていったのでした。
確かに彼らには、「ダビデの子よ」と呼びかける信仰はありました。しかし、それはある意味、あやうい信仰でもあったのです。イエス様は30節のところで、「このことは、だれにも知らせてはいけない」と二人に厳しく命じられました。それは、「ダビデの子」という言い方の中に、政治的メシア、力によってイスラエルの国を再建し、繁栄させるという救い主のイメージがあったからです。もしこの噂が広まっていけば、イエス様は政治的なメシアとして担ぎ上げられてしまいます。それはイエス様の本意ではありません。イエス様は、確かに「ダビデの子」であり、救い主でしたが、彼らが考えていたような敵を蹴散らし、イスラエルの国を繁栄させるような政治的なメシアではなかったのです。むしろイエス様は、十字架の死と復活によって、すべての人を罪の縄目から解放し、永遠の命に至らせる救い主として、へりくだってこの世にお出でになったのでした。彼らは、まだこの時点では、そのことを知りません。しかも、彼らの信仰がどれほどのものであったかと言うと、はなはだ心許ない思いがいたします。おそらく彼らは、藁にもすがるような思いでイエス様に寄りすがっていただけではなかったかと思います。前回学んだ十二年間出血が止まらなかった女性がイエス様の服の房に触れたのと同じです。彼らは、いずれも、確固たる信仰を持った模範的な信仰者ではありませんでした。むしろ彼らは、この世の様々な苦しみや悲しみ、嘆きの中で翻弄され、自分の力ではどうすることも出来ない絶望の中から、イエス様に必死の思いで助けを求めただけなのです。そういう彼らの切なる願いを、イエス様がしっかりと受け止め、それを信仰と呼んで下さいました。つまり、これは彼らの信仰の力によって起こった癒しの御業ではなくて、あくまでもイエス様の憐れみの御業なのです。イエス様は、彼らの弱く貧しい信仰をしっかりと受け止め、「わたしにできると信じるのか!」と彼らに迫られました。そうやって彼らの背中をポンと押して下さることによってイエス様は、彼らからついに「はい、主よ」という答えを引き出して下さったのです
私たちの中には、自らの信仰の強さを誇れるような人など一人もいないと思います。しかし、それでよいのです。イエス様は、たとえ私たちの信仰が弱く、貧しくても、ここぞという時に私たちの背中をポンと押して、「わたしにできると信じるのか!」と迫りながら、私たちから「はい、主よ」という答えを引き出して下さるのです。
私が牧師になることを考え始めた時、大きな壁が幾つもあり、やはり私が献身する道は閉ざされているのではないか、これは神様の御心ではないのかもしれない、と諦めかけたことがありました。しかし、私が躊躇していると、短い期間に、その壁があれよあれよという間に崩れ去っていったのです。その壁の一つは、会社をすぐには辞めさせてもらえなかった、ということでした。直属の上司に相談したところ、「話にならん!」とけんもほろろに突き返されてしまいました。しかも、お世話になった本社の常務が、近々説得に来るという話にまで発展してしまい、献身すること自体をを諦めたわけではありませんが、喧嘩別れするような仕方で退職したくはありませんから、「かなり時間がかかりそうだなぁ」と、正直言って少々落胆していたのです。ところが、その翌日、直属の上司が、退職することをあっさり承諾してくれたのです。その理由を聞くと、その上司の奥様は、ちょうどその一年前にカトリックの洗礼を受けられたそうで、私が退職することを、その奥様に愚痴ったところ、「牧師になろうとしている人の邪魔をするなんて、とんでもない!」とこっぴどく叱られたそうです。そして「その人の邪魔をするのではなくて、あなたがその人の助け手になってあげなさい!」と妻から念押しされてしまったんだ、とその上司は話してくれました。そういうわけで、その上司が本社の常務を説得してくれて、私は、思いがけず、引き継ぎ後、早々に退職することが出来たのでした。当時この上司の話を聞いた時、私は鳥肌が立ちました。この道は神様が備えて下さった道なのだと確信することが出来たのです。まさに神様から「わたしにできると信じるのか!」と背中をポンと押され、「はい、主よ」と私は神様に答えることが出来たように思います。
今、私たちには、様々な祈りの課題が与えられています。中には、厳しい現実を突きつけられて、「いくら何でも、これは無理ではないか」と諦めたくなるような課題もあります。けれども、私たちに出来なくても、神様に出来ないことは何一つありません。「わたしにできると信じるのか!」この主の問いかけに、迷うことなく「はい、主よ」と答えながら、神様の御業が現れる時を、忍耐強く祈り待ちたいと思います。