絶望から希望へ
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- 吉田謙 牧師
18 イエスがこのようなことを話しておられると、ある指導者がそばに来て、ひれ伏して言った。『わたしの娘がたったいま死にました。でも、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、生き返るでしょう。』19 そこで、イエスは立ち上がり、彼について行かれた。弟子たちも一緒だった。
マタイによる福音書 9章18節-26節
千里摂理教会の日曜礼拝は10時30分から始まります。この礼拝は誰でも参加できます。クリスチャンでなくとも構いません。不安な方は一度教会にお問い合わせください。
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今日の物語は、「イエスがこのようなことを話しておられると」という言葉で始まっています。この言葉でマタイは、今日の物語をすぐ前のイエス様のお言葉と結びつけようとしているのです。今日の箇所のすぐ前のところでイエス様は、三つの譬えを語っておられました。そして、この三つの譬えの中で一番中心となる譬えは、先週学びましたように、「婚礼の譬え」です。「花婿が一緒にいる間、婚礼の客は悲しむことができるだろうか。」(15節)
この花婿というのは、イエス様のことです。「花婿である救い主イエス様が共にいて下さる時に、悲しみのしるしである断食をすることが果たして相応しいことなのだろうか?!」とイエス様は語られたのでした。さらには、この断食についての問答が行われたのは、その前の10節以下に記されていたように、イエス様が多くの徴税人や罪人たちと一緒に食事の席に着いておられた時のことでした。その食事の席では、花婿が共にいる喜びが満ち溢れていたのです。そこへ一人の父親がやって来ました。この父親は、喜びとは正反対のニュースを携えてやって来たのです。それは「わたしの娘がたったいま死にました!」というニュースでした。これは悲しみの中でも最も大きな悲しみの部類に入るのではないかと思います。イエス様は、この父親に対して、「あなたのような悲しみを引きずった人間は、この喜びの席に相応しくない!」と言われたでしょうか。決してそうではありません。19節には、「そこで、イエスは立ち上がり、彼について行かれた」と言われています。イエス様は、この楽しい食事会の席から立ち上がり、愛する者を失った父親について行ったのです。一番悲しい場所、私たちが想像する中で最も悲しい出来事が起こっている場所に、イエス様は喜びの席から立ち上がり、まっすぐに突き進んで行かれたのでした。それは一緒に嘆くためではありません。その悲しみの場所も花婿が共にいる喜びの場所に変えるために、イエス様はこの父親について行ったのです。
その家に到着すると、イエス様は、「少女は死んだのではない。眠っているのだ!」(24節)と言われました。そして実際に、まるで眠っている子供を起こすかのように、手を取り、この娘を起こされたのです。この娘は、本当に眠っていただけなのでしょうか。そうではありません。確かに死んでいたのです。この時、イエス様が家の中に入り、少女の手をお取りになると、死んでいたこの少女は起き上がった、と言われているのです。
愛する者の死の場所は、喜びの源である花婿イエス様が近づくことが出来ない場所ではありません。いやむしろ、イエス様はそこまで近づくことが出来るお方であり、その場所をも喜びの場所へと変えることの出来るお方なのです。マタイはそのことを、この物語を通して、私たちに伝えたかったのではないでしょうか。
私は牧師として、多くの方からの相談を受けます。時にそれはどうにもならない深刻な問題で、そういう時に私は言葉を失い、何のアドバイスも出来ず、ただ呆然と話を聞くことしか出来ません。何にもしてあげられない。本当に自分の力の無さを思い知らされるのです。けれども、そういう方々のために、私は祈ることができます。また、その方自身も祈ることができるのです。その苦しみが大きければ大きいほど、その悲しみが深ければ深いほど、自分の力では、もうどうすることも出来ないことが身に染みてよく分かると思います。その思いが大切なのです。自分の力で藻掻いて藻掻いて、どうにもならなくて、そこで諦めてしまうのではなくて、自分の力ではどうすることも出来ないからこそ、今日の箇所に登場する人たちのように、イエス様に助けを求めるのです。
彼らは、決して信仰深かったわけではありません。むしろ彼らは、この世の様々な苦しみや悲しみ、嘆きの中で翻弄され、自分の力では、もうどうすることも出来ない絶望の中から、イエス様に必死の思いで助けを求めただけなのです。そういう彼らの切なる願いを、イエス様がしっかりと受け止め、それを「あなたの信仰」と呼んで下さいました。つまり、「あなたの信仰があなたを救った」という今日のイエス様のお言葉は、私たちの信仰の力を語っているのではなくて、弱く、欠けだらけの私たちのことを信仰者と呼んで下さるイエス様の深い憐れみを言い表していたのでした。ですから、「信仰とは何か」とあれこれ考え込むのではなくて、ただイエス様の憐れみにすがりながら、「イエス様、今、私にはあなたの助けがどうしても必要です。あなたの支えがどうしても必要です。どうか助けて下さい。どうか支えて下さい。どうか立ち上がらせて下さい!」と信じて祈ればよいのです。その時にきっと、その時々に相応しい助けが与えられることでしょう。
私たちは、一週間のこの世の戦いの中で、ボロボロになって、いつしか「自分はもう駄目ではないか?!」という絶望の思いを引きずりながら教会にやって来ることがあります。礼拝は、そんな私たちの心を癒す時です。信仰を回復する時です。礼拝は、自分の意見を述べることを止めて、ただひたすらに神様の御言葉に集中する時です。心の中から、サタンに惑わされた自分の言葉を追い出し、もう一度、神様の恵みの言葉で満たしていただく時であります。もし、今、あなたが八方ふさがりの中で、どうすることもできなくて、絶望しかけているならば、もう一度、神様の恵みの言葉で心を満たしていただきましょう。大丈夫なんです。十字架の死を突き抜けて、死に勝利なさったイエス・キリストが、どんな暗闇の中にあっても私たちと共にいて下さいます。
イエス様はある時、こう言われました。「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」(ヨハネ16:33)。「勇気を出しなさい。あなたは揺らぐかもしれないけれど、私は決して揺らぐことがない。今、あなたの信仰を揺さぶっているその悪の力にも、私は既に勝利している。安心しなさい。私が守る。私が共にいる。どんなことがあろうと、私は決してあなたを見捨てない!」このように主は励まして下さいます。そして、この言葉をもって、今日も私たちを送り出して下さるのです。これ以上の慰めの言葉が他にあるでしょうか。