日曜朝の礼拝「新しいぶどう酒は新しい革袋に」

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新しいぶどう酒は新しい革袋に

日付
説教
吉田謙 牧師
14 そのころ、ヨハネの弟子たちがイエスのところに来て、「わたしたちとファリサイ派の人々はよく断食しているのに、なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか」と言った。15 イエスは言われた。「花婿が一緒にいる間、婚礼の客は悲しむことができるだろうか。しかし、花婿が奪い取られる時が来る。そのとき、彼らは断食することになる。・・・・ 17 新しいぶどう酒を古い革袋に入れる者はいない。そんなことをすれば、革袋は破れ、ぶどう酒は流れ出て、革袋もだめになる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。そうすれば、両方とも長もちする。
マタイによる福音書 9章14節-17節

 イエス様は、「なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか」という質問に対して、譬えを用いて答えられました。最初の譬えは、結婚式の譬えです。言うまでもなく、結婚式の祝いの席は豊かな食事の席です。そこでは、沢山食べ、沢山飲むことが、招待してくれた人に対する礼儀であり、またそれによって、その喜びは益々大きくなっていくものでしょう。そして、その喜びは花嫁と花婿と共になされる食事の時に最高潮に達します。そんな時に、出された食事を食べずに悲しみを露わにするということは、どう考えても相応しくありません。これは誰にでも分かる世の常識です。イエス様は、ご自分のことを花婿に譬えられながら、「今、弟子たちが罪人や徴税人たちと楽しんでいる食事は、結婚式の宴会のような食事なのだ」と言われたのです。イスラエルの人々が期待した天国のイメージは、救い主と一緒に宴会をするというイメージでした。ですから、イエス様が花婿として来られたというのは、将に天国の喜びが既にこの地上において始まっている、ということを表していたのです。「そういう喜びの時がやって来たというのに、断食をして悲しみを表すことは相応しくない。むしろ大いに喜ぶべきではないか」とイエス様は言われたのです。

 またイエス様は、あの「新しいぶどう酒は新しい革袋に」という譬えを語られました。新しいぶどう酒というのは、まだ盛んに発酵している泡立つぶどう酒のことです。そういう泡立つぶどう酒を弾力性がなくなった古い革袋に入れたならば、この革袋はたちまち張り裂けてしまいます。ですから、新しいぶどう酒は弾力性のある新しい革袋に入れるのです。これも当時の常識でした。「それと同じように、イエス様を信じて新しく歩み始めた人たちの生き方は、『真面目に生きる人は、断食をしなければならない』というような古い習慣で縛ることは出来ない。弟子たちは新しいぶどう酒のように、新しい革袋を求める他はない。新しい生活の仕方を求める他はないのだ」とイエス様は教えられたのです。

 それでは、イエス様を信じる者の新しい生き方とは、どういう生き方を言うのでしょうか。このことを教えているのは、最初の婚礼の譬えです。この婚礼の譬えで教えられている、イエス様を信じる者の新しい生き方とは、花婿であるキリストによって喜びも悲しみも決定づけられる、という生き方です。花婿であるイエス様が側にいると、もう嬉しくて嬉しくてたまらない。嬉しさが生活の中に、にじみ出てくるのです。逆にイエス様が遠くに感じると悲しくてたまらない。悲しみが生活の中に表れてくるのです。イエス様が側にいるのか、いないのか、それによって喜びも悲しみも決定づけられる。これがイエス様が教えられた新しい生き方なのです。

 私たちの喜びや悲しみは、何によって決まっているでしょうか。子供によって、あるいは仕事が順調かどうかによって、その他にも色んなことによって私たちの人生の喜びや悲しみは左右されると思います。しかし、私たちの喜びと悲しみを決定づけているものが、もし子供のことであっても、仕事のことであっても、どんな重要なことであっても、それが最後まで私たちの喜びと悲しみを決定づけているならば、私たちの人生は本当に危ういものになってしまいます。何故ならば、やがて私たちはその一つ一つを手放していかなければならないからです。まるで泥の舟で人生の海を渡っているかのようです。しかし、私たちの人生の喜びと悲しみが、イエス・キリストによって決まっているのであれば、それは幸いです。ある時にはイエス様を遠くに感じて悲しむことがあるのかもしれません。けれども、イエス様の方は決して私たちをお見捨てにはならないのです。たとえイエス様を遠くに感じたとしても、それは私たちが勝手に遠くに感じているだけのことであって、イエス様はそういう時にも、ずっと私たちのそばにいて下さいます。十字架の愛で私たちを愛し抜いて下さり、決して私たちをお見捨てにはならないのです。私たちの方は本当に弱いですから、すぐに信仰がぐらつき、イエス様が遠のいたり近づいたりして悲しんだり喜んだりしてしまいます。けれども、イエス様は十字架と復活の後(のち)に、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と約束して下さいました。今は、霊において私たちと共にいて下さいます。私たちさえ心の目を開くならば、イエス様はいつでも私たちのすぐ側にいて下さるのです。そういうわけで、たとえ悲しみの時がしばらく続いたとしても、やがて私たちは、必ずこの喜びへと引き戻されるはずなのです。

 イエス様が共にいて下さることを生き生きと感じることが出来るのは、通常は御言葉を読み、祈る時でありましょう。もし、私たちの喜びや悲しみが、花婿であるイエス様が共にいるかどうかで決まっているならば、私たちは日毎の生活の中で御言葉を読み、祈る時を、どうしても求めたくなるはずです。

 忙しくて、到底、朝、御言葉を読むことなど出来ない、と言われる方がいらっしゃいます。しかし、それでも頑張って朝早く起きて、御言葉を読んでおられる方がいらっしゃいます。どうしても朝は駄目なので、夜の時間に読む方もいらっしゃいます。あるいは、自分ではなかなか聖書が読めないので、日曜日の礼拝だけではなくて、週日に行われる集会にもできるだけ出席するようにしている、という方もいらっしゃいます。これは決して決まりごとではありません。古い革袋のように掟集があって、「こうしなければならない」というわけではないのです。しかし、新しいぶどう酒は新しい革袋を求めるはずです。きっとあなたには、あなたの、主が共にいて下さることを喜ぶ生活のあり方があるはずです。そういうわけで、一人一人にとって最も相応しい新しい革袋を、是非、整えていただきたいと思います。

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