罪人を招く救い主
- 日付
- 説教
- 吉田謙 牧師
12 イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。13「わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない」とはどういう意味か、行って学びなさい。
マタイによる福音書 9章9節-13節
千里摂理教会の日曜礼拝は10時30分から始まります。この礼拝は誰でも参加できます。クリスチャンでなくとも構いません。不安な方は一度教会にお問い合わせください。
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イエス様の周りには、多くの罪人がいました。ある時、イエス様が多くの罪人たちと一緒に食事をしている時に、ユダヤ教の指導者たちが、弟子たちに対して文句を言いました。「こんなにいかがわしい人たちと一緒に食事をするとは、あなたたちはいったい何を考えているのか!」と。この非難は、イエス様を慕って集まった罪人にとって、本当に深く心に突き刺さる言葉ではなかったかと思います。けれども、イエス様はそういう非難に対して、教会を守り、集まった罪人たちを守られました。12節。「イエスはこれを聞いて言われた。『医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。』」
「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である!」とイエス様は言われながら、教会の中に病んでいる人々や様々な弱さと欠けを持っている人々がいるのは、イエス様にとって決して不名誉なことではないのだ、と明言なさったのでした。
医者の周りには、自然と病人が集まって来るものでしょう。腕のいい医者の周りほど、重病患者が沢山集まってくるものです。もし病院の待合室に行った時に、重い病気の人が沢山いたとしたならば、皆様ならどう感じられるでしょうか。「こんなに重病患者ばかりいる病院では危なっかしくて、信頼できない!」などとは決して思わないと思います。むしろ重い病人、難病と言われている人が沢山いる病院は、腕のいい医者がいることの証しなのです。
イエス様は魂を癒す医者です。教会は、魂が重く病んでいる人々が来てよいところです。いやむしろそういう人が来ていることが、イエス様の誉れになるのです。イエス様のまわりには、ユダヤ教の律法主義が投げ出す他は無かった罪人が沢山来ていたのでした。
イエス様は、この食事会を馬鹿にしたファリサイ派の人々に向かって、このように言われました。13節。「『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。」
「わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない。」これは、少し言い回しは違いますが、内容的には旧約聖書のホセア書6章6節の引用になっています。イエス様は、この旧約聖書の御言葉を引用しながら、ファリサイ派の人々の過ちを厳しく指摘なさったのでした。
ファリサイ派の人々は、自分の熱心さや努力によって救いを獲得することが出来ると考えていました。もし、本当にそうであるならば、救い主など必要ありません。自分で病気を治すことが出来るのなら、医者など必要ないのです。けれども、本当はそうではありません。私たちの救いは、人間の力によるのではなくて、ただただ神様の憐れみによるのです。イエス様は、徴税人や罪人たちをご自分の食卓に招かれながら、将にこの神様の憐れみを、目に見える仕方で現して下さいました。イエス様の食卓は、神様の憐れみが、こんなにも罪深い者たちの罪をも包み込むことが出来ることを、よーく表していたのです。それにも関わらずファリサイ派の人々は、この食卓をけなそうとしました。そこでイエス様は、彼らを厳しくお叱りになったのです。「あなた方は、神の憐れみが最もよく表れている、この食卓をけなそうとしている。あなた方は偉そうなことを言っているけれど、本当は何にも分かっていないのではないか?!行って、もう一度、学び直しなさい!」と。ファリサイ派の人々は、自分の正しさ、自分の熱心や努力、自分はこれだけのことを積み上げてきた、という誇りやプライドの中に座り込んでいました。ですから彼らは、そこから立ちあがり、もう一度、学び直す必要があったのです。自分の熱心や努力にこだわり、自分は人よりも正しく、清い生活をしていると満足し切っている、そのような高慢な思いこそが、ファリサイ派の人々にとっての「収税所」でした。イエス様は、彼らをそこから立ち上がらせるために、このような厳しい言葉を語られたのです。
私たちは、このファリサイ派の人々に、自分の姿を重ね合わせる必要があります。自分の清さに頼って、他人の罪を裁いてしまう。これは案外クリスチャンの中にも起こりがちな過ちではないかと思います。「教会の中にあんな人がいては困る!」、「あんな人がいる教会は教会ではない!」、「あんな人と一緒に信仰生活はしたくない!」、しばしば教会においても、こういうことが語られることがあります。私たちは、いつの間にか思い違いをしていることがあるのです。私たちが清く、正しく、キリストの弟子らしく生きているので、キリストの弟子なのだ、と。しかし、これはとんでもない勘違いです。私たちが招かれたのは、キリストの弟子に相応しいからではありません。キリストを必要としている罪人だからです。このことを忘れる時に、私たちは簡単にファリサイ派に変貌してしまいます。
ファリサイ派と言うと、聖書ではいかにも悪役のようにして描かれていますが、それはファリサイ派の人たちの内側にある知られざる罪を聖書が暴いているからです。当時のユダヤ人たちは、ファリサイ派の人たちのことを、決して悪人とは思っていませんでした。むしろ彼らは、普通の人には到底真似ができないような清い生活を厳格に守っている尊敬すべき人たちでした。彼らはドラマの悪役のように、見るからにそれと分かるような悪人ではなかったのです。それこそ、彼らはいつも教会に熱心に集い、様々な苦しみや悲しみを抱えながらも、神様を信じ、希望をもって戦い続けている私たちに、最も近い人たちだったのかもしれません。彼らは、誰よりも真剣に、まじめに生きていただけに、いい加減に生きている人たちのことを、どうしても認めることが出来なかったのです。まじめに信仰生活を守っているクリスチャンほど、こういうファリサイ派的な過ちに陥りやすいのではないでしょうか。
教会の頭であるイエス様は、魂の医者であり、私たちは患者仲間、罪人同士です。私も癒されなければならないし、私が気にかけているあの人も癒されなければならない。みんなそのままで清い人間は誰一人いないのです。そして、医者であるイエス様に近づいてはいけないような重い病人も誰一人いません。みんな罪人であり、みんな罪赦されていて、みんな清められていくのです。
ですから、不甲斐ない自分にくよくよせずに、あるいは愛する者の頑なさに絶望せずに、罪人を招き、その魂を癒して下さるイエス様に、自分の罪も、また愛する者たちの罪も全部委ねて、希望をもって歩んでいきたいと思います。