日曜朝の礼拝「罪を赦す権威」

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罪を赦す権威

日付
説教
吉田謙 牧師
2 すると、人々が中風の人を床に寝かせたまま、イエスのところへ連れて来た。イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、『子よ、元気を出しなさい。あなたの罪は赦される』と言われた。
マタイによる福音書 9章1節-8節

 ある時、人々は、中風の人を床に寝かせたまま、イエス様のもとに連れてきました。周りの人は、「きっとイエス様はこの人の病を、今までと同じように癒して下さるに違いない!」と期待していたのでしょう。ところがイエス様は、この中風の人に向かって、「元気を出しなさい。あなたの罪は赦されている」と語りかけて下さったのです。イエス様のお考えでは、この人が元気を出すためには、自分の罪が赦されていることに目を向けなければならなかったのでした。

 ここに使われている「罪」という言葉は、原文では複数形になっています。「もろもろの罪」という意味の言葉です。あの罪、この罪というように色んな罪が、この人から元気を奪い、生きる力を奪っていたのです。おそらくこの人は、脳出血で倒れた後(あと)に、寝たきりの自分を責め続けてきたのではないかと思います。体は元通りにはならない。取り返しのつかないことが起こってしまった。もう自分は神様から見捨てられてしまったのではないか、と。そして、そういう思いで自分の今まで歩んできた人生を振り返ってみると、確かに神様から見捨てられても仕方がないような、色んな失敗や色んな過ち、色んな悪い考えが思い出されてきたのです。この人の人生は決して完璧だったわけではありません。イエス様が「もろもろの罪」と言われたように、今まで色んな罪を犯してきたのです。「その結果として、神様から見捨てられ、取り返しのつかない不自由な体になってしまった。もう自業自得である!」という具合に、この時、この人は、自分を責めながら絶望していたのではないでしょうか。到底、元気を出すどころではなかったのです。

 私たちも、こういうことを人生のある時期に、味わうことがあります。様々な辛い出来事に出会う時に、あるいは自分の道が行き詰まったかのように感じる時に、しばしば私たちは自分を省み、自分の罪を思い起こすのです。今まで自分が犯してきた様々な罪を思えば、与えられた苦しみは当然ではないか、自業自得ではないか、と。これは、生きる元気を奪うような罪の自覚です。この中風の人は、この時、そのような元気喪失の中にいたのでした。ですからイエス様はこの人に向かって、「元気を出しなさい。あなたの罪は赦された!」と語りかけて下さったのです。

ところが、このイエス様の言葉に反論する人たちがいました。律法学者たちです。9章3節のところには、「ところが、律法学者の中に、『この男は神を冒涜している』と思う者がいた」と言われています。律法学者たちは聖書をよく勉強していました。そして、「あなたのもろもろの罪が赦された」ということが言えるのは、神様以外にはいない、と結論づけたのです。「人間が人間に向かって、『あなたの罪は赦された』と言い切るとは、何たることか。それでは神様の領分を侵すことになるではないか!」これが律法学者たちの言い分でした。確かにその通りです。罪を赦すことが出来るのは神様だけでしょう。神様が赦して下さらなければ、誰も人に向かって、罪を赦すことなど出来ないのです。もし人間が、「あなたの罪は赦された」と言うならば、それは神様の権威を名乗ることになり、神様を冒涜することになります。ですから、この律法学者たちの聖書研究は正しかったのです。けれども、これはどんなに正しくても、元気が出てこない聖書研究でした。聖書が分かっても、全然元気が出てこないのです。

 罪を赦す権威を持つ人間など、本来いないはずなのです。けれども、イエス・キリストはその権威を帯びたお方として、神様から遣わされました。ただ神の独り子であるから罪を赦す権威がある、というのではありません。神の独り子であるイエス・キリストご自身が、私たちの身代わりとなって、十字架の上で死んで下さいました。ご自身の肉を裂き、血を流して下さったのです。イエス・キリストは、将に、この十字架の道を突き進み、私たちのすべての罪を背負う覚悟を決めたお方として、罪を赦す権威を身に帯びておられました。「元気を出しなさい。あなたの罪は赦された。あなたは自分で自分を責めるのかもしれない。でも大丈夫、あなたの罪は全部私が担うから、あなたは安心して行きなさい!」これはイエス様だからこそ語ることが出来たお言葉です。こうしてイエス様は、御自分がこれから成し遂げようとしていることを示すしるしとして、この中風の人を癒されたのでした。

 今日の物語の結びのところには、「群衆はこれを見て恐ろしくなり、人間にこれほどの権威をゆだねられた神を賛美した」と言われています。この世界の中で、人間のもろもろの罪を地上で赦すことが出来た人間は、イエス様が初めてでした。独り子である神、イエス・キリストに、この罪を赦す権威が委ねられたのです。けれども、マタイは「イエス様に」とは書かないで、「人間に」と書きました。しかも、ここでの「人間」という言葉は「複数形」になっています。これは明らかに、イエス様だけではなくて、私たちをも視野に入れた言葉になっています。この罪を赦す権威は、イエス様が天に帰られた時に一緒に天に持ち帰られ、もう、この地上には、罪を赦す権威はないのでしょうか。決してそうではありません。イエス様を信じる私たちは、お互いに「元気を出しなさい。あなたの罪は赦されている!」と語り合うことが出来ます。教会とはそういう群れなのです。

 スイスの有名な牧師「トゥルーナイゼン」という人が、こういうことを語っています。「カトリックの方たちは、司祭でなければ悔い改めを聞き、それに対する罪の赦しを告げることはできない。しかし、我々はそうは思っていない。お互いが、お互いの罪のために祈ることができる。肩を並べて、この人の罪をどうぞ神よ、赦して下さい、と祈ることができる。だから必要ならば、自分の信仰の仲間に自分の罪を、過ちを告げることができる。それを聞かされた人は、誰にその秘密を告げるのでもない。肩を並べて、神よ、どうぞこの人の罪を赦してあげて下さい、と祈ることができる。その祈りは必ず聞き届けられる。だから、罪の赦しは喫茶店でも起こる。街角でも起こる。教会の群れがある限り、何処ででも起こる。」

 本当に心躍るような言葉ですね。喫茶店でも、街角でも、教会の群れがある限り、罪の赦しが何処ででも起こる。教会はそのために遣わされているのだ、と言うのです。そういうわけで、私たちも内側に閉じこもるのではなくて、この「罪の赦し」の恵みを、必要としている者たちのところへ、喜んで携えていきたいと思います。

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