日曜朝の礼拝「キリストに従う」

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キリストに従う

日付
説教
吉田謙 牧師
21 ほかに、弟子の一人がイエスに、『主よ、まず、父を葬りに行かせてください』と言った。22 イエスは言われた。『わたしに従いなさい。死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。』
マタイによる福音書 8章18節-22節

イエス様が向こう岸に渡ろうと言われた時に、ちょうど父親が亡くなったばかりの弟子がいたようです。彼は困り果てながらも、「父を葬りに行かせてください」とイエス様に申し出たのです。ところがイエス様は、「わたしに従いなさい。死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。」と言われたのでした。これはいったいどういう意味なのでしょうか。イエス様は、「葬儀はどうでもよい」と言われたのでしょうか。決してそうではありません。父と母を敬えと教えられたイエス様が、そんなことを言われるはずがないのです。キリスト教は葬儀を大切にします。悲しみの中にあるご遺族を慰め、遺体を丁重に葬り、その故人をこれまで生かしてこられた神様を心から誉め称える。このような葬儀は決して疎かにされてはなりません。ここではそういうことが問題なのではなくて、「父を葬る」ことを口実にし、イエス様に従う責任を引き延ばそうとしている信仰者の心が問われているのです。彼は、まず何を第一にすべきかが分かっていないのです。おそらく、この人の心には、第一が家族、第二がイエス様、という思いがあったのでしょう。イエス様は、そういう中途半端な従い方には、決して満足なさいません。

 そもそも、父を葬ることと、イエス様に従うことは、相反することでしょうか。イエス様に従うならば、父を葬ることが出来ないのでしょうか。決してそんなことはありません。むしろイエス様の傍らにこそ本当の命があるはずです。イエス様不在の葬儀をいくら盛大にしたところで、そこには本当の命はありません。結局、それは死に打ち勝つことが出来ず、死の虜(とりこ)になってしまったことを、ただただ嘆くしかないような、空しい弔(とむら)いになってしまうのです。ここでイエス様は、「それでよいのか?!」と問うておられます。「私についてくる意外に死に打ち勝つ道、真実に死を克服する道があるとでも言うのか?!」と主は言われるのです。

 よく宗教で問題になるのは、熱心に信仰するあまりに家族の絆を軽んじてしまう、ということです。熱心な宗教ほどそれが問題になります。特に新興宗教は、そういう傾向が非常に強いのではないかと思います。家族を捨て、仕事を捨て、全てを捨てて、その宗教団体のために熱狂的に仕えるのです。熱心な信仰という面からだけ見れば、本当に頭の下がるような思いがします。けれども、こういう信仰は、明らかにどこかずれています。イエス様の模範は、決してそうではありません。イエス様は家族の絆を大切にされました。しかし、家族を愛するがゆえに、ある時には、その家族の思いを犠牲にしなければならないこともあるのです。

 ある方のご主人が、治る見込みのない病気で入院なさいました。その方は、ご主人が死ぬまでは精一杯看病しようと決心し、自分の教会の牧師に、「主人が今、大変な状態にありますから、主人を看取るまでは、教会を休んで主人を精一杯看病したいと思います。しばらく礼拝には出席できません!」と伝えたそうです。すると、その牧師は、「日曜日は、病人を置いて礼拝に出てきなさい!」と言われたそうです。その方は、その時、正直言って、「なんて人情の分からない冷たい牧師なのだろう」と思ったそうです。しかし、彼女はその牧師の言う通りに、日曜日には、ご主人を病院に残して、礼拝に出席したそうです。そのお陰で、そのご主人は、死ぬ直前になって、奥様の信仰に促され、イエス様を信じ、平安の内に神様の御国へと旅立っていかれたのでした。もし、この方がご主人の看病のためにかけずり回り、礼拝に出席することさえ止めてしまっていたならば、とても確信をもって永遠の命の希望を、ご主人に語り告げることなど出来なかったでしょう。この方が、大胆に、確信をもって、永遠の命の希望を語ることが出来たのは、やはり彼女自身が日曜日の礼拝の中で大きな慰めを受けていたからです。この方は、死人として死人を葬るのではなくて、互いに永遠の命を心に抱いている者同士として、看取り、葬ることが出来る道を選び取ったのでした。

 自分自身がまず、イエス様の命を受けているのでなければ、私たちは愛する者を、この命に招くことは出来ません。家族を大事にし、礼拝を休む時に、私たちは、家族に一番よいことをすることが出来ない人間へと、ずり落ちてしまいます。一所懸命に仕えながら、死人を葬る死人になってしまう危険性があるのです。勿論、どうしても家族を見なければならない時もあるでしょう。礼拝を休んででも、どうしてもそばにいてあげなければならない時もある。けれども、その時にも私たちは、まずイエス様を見つめているかどうか、イエス様に従うことを喜びとしているかどうか、イエス様からの命を家族に伝えることを、私たちの最後の願いとしているかどうかが問われているのだと思います。

 私たちには、一度にあれもこれも全部一挙に成し遂げる力はありません。しかし、私たちに課せられる課題や責任は、そう都合良く、一つ一つ順番に迫ってくるわけではないのです。一挙に色んなことが押し寄せてきます。今すぐ、解決しなければならない緊急事態として、色んなことが一度にやってくるのです。そんな時に私たちは、まず優先順位を決めて、順番に一つ一つこなしていく必要があります。しかし私たちは、その優先順位を決める時に、よくこの弟子のような過ちを犯してしまうのではないかと思います。もっともらしい理由を口実にしながら、主に従うことを後回しにしてしまうのです。

 イエス様は、山上の説教の中で、このように教えられました。「何よりも神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」(マタイ 6:33)。

 イエス様に従う時に、私たちの必要をすべてご存知であるイエス様がすべてを備えていて下さいます。この御言葉に信頼し、まず神様に従うことを最優先にしていきたいと思います。余った時間で、片手間に神様に従うのではなくて、最も大切な時間を、また最も大切なものを神様に献げていきたいと思います。その時に神様は、きっと私たちの全ての必要を満たして下さるでしょう。

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