日曜朝の礼拝「仕える喜び」

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仕える喜び

日付
説教
吉田謙 牧師
14 イエスはペトロの家に行き、そのしゅうとめが熱を出して寝込んでいるのを御覧になった。15 イエスがその手に触れられると、熱は去り、しゅうとめは起き上がってイエスをもてなした。
マタイによる福音書 8章14-17節

 今日の箇所には、ペトロのしゅうとめが登場します。どうやら彼女は、夫に先立たれ、この時、ペトロの家に引きとられていたようです。そして今日の箇所では、そのしゅうとめが熱病で苦しみ、寝込んでいた、と言われているのです。

 このしゅうとめは、娘の嫁ぎ先に厄介になっていました。しかもその家は、お金持ちの家ではありません。家族の力だけが資本といえるような貧しい漁師の家でした。年老いた彼女がそこで出来ることと言えば、せいぜい台所仕事か雑用ぐらいだったのではないかと思います。しかし、たとえそういう雑用であったとしても、そのことを通して家族に奉仕できるということで、多少は彼女の気持ちも楽になっていたのかもしれません。けれども、彼女はこの時、高熱のために、それすら出来ない体になっていたのです。どれだけ肩身の狭い思いをしていたことでしょう。

 またそういう気まずい毎日を送っていた彼女にとって、会堂での礼拝は唯一の慰めだったのではないか、と思います。ところが彼女は、その唯一の慰めさえ、この高熱によって奪い取られてしまったのです。

 彼女の置かれていた、そういう様々な状況を考えあわせると、彼女にとってこの病気は、ただ高熱が出て苦しいというような単純なことではなかったと思います。彼女にとってこの熱病は、生活全体の死を意味していたのです。家の中にいても気まずい、世の中でも人並みの役に立たない、神様からも忘れ去られてしまった、これはそういう生きながらの小さな死を意味していました。イエス様は、そういう彼女をご覧になりました。そして、ただ肉体的に彼女を癒して下さっただけではなくて、彼女のこの苦しみを全部知った上で、肉体的に、また魂の深みにおいても癒して下さったのです。ただ病気が癒され、熱が引いただけではなくて、イエス様に仕えることが出来る者へと完全に回復して下さったのでした。

 今、朝の連続テレビ小説「あんぱん」で、やなせたかし役の俳優が、戦時中に、「自分は何のために生きているのか分からない。それを見つけるまでは絶対に死ねない!」と告白するシーンがありました。「自分は何のために生きているのかが分からない!」これは、思春期や青年期において、自分を見つめる際に、誰もがぶつかる問題ではないかと思います。そういう問題を解かないままで、次から次へとやってくる問題をこなしていく内に、いつの間にか年を重ねてしまい、自分が何のために生きているのかが分からない、そういう人が案外多いのではないでしょうか。私たちが生きて甲斐ある存在になるためには、自分が価値ある存在であることを知らなければなりません。そして、そのためには、自分が価値ある存在であることを確証するための手がかりを見つけなければならないのです。家族や職場にその生き甲斐を見出して生きている人たちがいます。しかし、それらは、いつかは変わるもの、いつかは失われていくものです。いつまでも残り続けるものではありません。そういうものにしがみついている人は、それが変化したり、失われてしまった時に、自分の存在価値を見出せなくなり、魂が病んでしまうのです。しかし、イエス様に拠り所を求めている人は違います。イエス様は、いつまでも変わることなく私たちを愛し続けて下さいます。いつも私たちの傍らに立ち、「何かが出来るからではない。あなたがあなただから、私はあなたを愛する。あなたの存在そのものが私には愛おしい。高価で尊いのだ!」と語りかけて下さるのです。

この時彼女は、食事の用意をしてイエス様に仕えました。しかし、年老いた彼女がいつまでも食事の用意が出来るわけではありません。やがては老齢のために、また食事のもてなしが出来なくなってしまったでしょう。しかし彼女はもう絶望しなかったと思います。何故でしょうか。それは彼女が魂の深みにおいて既に癒されていたからです。たとえ周りの環境が変化し、色んな拠り所が失われていったとしても、イエス様だけは、しっかりとつながっていて下さる。「私がいるではないか。私に仕えなさい。」と言って下さるのです。この確信が、彼女の魂を最後まで支え続けたのではないかと私は思います。

 私たちもやがては年老いて、今まで出来ていたような奉仕がだんだんと出来なくなっていくと思います。そして、ついには礼拝にも出席できなくなってしまう時がやってくるのです。その時に私たちは、世間からも、教会からも、神様からも見放されたような「絶望的な孤独」に陥ってしまうのでしょうか。決してそうではありません。たとえ礼拝に出席できなくなったとしても、私たちは神様に仕え、神様にしっかりとつながることが出来るのです。祈ることにおいて、また祈ることが出来なくても、神様を信じて生きるというその生き様そのものにおいて、私たちは神様に仕えることが出来ます。そして最後の最後まで生きる意味や目的を失うことなく、希望をもって歩むことが出来るのです。

 8章の学びに入り、今日の箇所まで、しばらく癒しの物語が続きました。そして、そういう一連の癒しの意味について、マタイは17節のところでまとめてこう書きました。「それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった。『彼はわたしたちの患いを負い、/わたしたちの病を担った。』」

 マタイは、イエス様が神様の子供として、全能の御力をもって、らくらくと人を癒されたとは言いません。そうではなくて、これは、あの預言者イザヤの預言(イザヤ書53章)の成就であった、と言うのです。即ち、私たちの病を背負い、病に伴う様々な悲しみや嘆きを我が事として受けとめ、共に悲しみ、共に苦しむという仕方で、人間の存在そのものを回復し、癒して下さった。イエス・キリストによって、このイザヤの預言が成就したのだ、とマタイは書いたのです。イエス様は、私たちがイエス様に仕える以前に、まずご自分の方から私たちの病を背負い、そのような仕方で私たちに仕えて下さいました。今日の箇所でも、ペトロのしゅうとめが起き上がり、イエス様に仕える以前に、まずイエス様の方が彼女の病を背負って下さったのです。彼女の痛みや嘆き、やるせなさ、その暗闇を全部引き受けて、その病の最も奥深くにある死のとげをも担って下さった。そのようにして彼女の存在そのものを癒し、健やかにして下さったのです。その癒された彼女が、まず真っ先にしたことが、このイエス様に対するもてなしであった。彼女はまず何よりもイエス様にお仕えしたのだ、とマタイは書いたのです。マタイはこの仕えるべき中心を明確にしたのでした。

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