百人隊長の信仰
- 日付
- 説教
- 吉田謙 牧師
10 イエスはこれを聞いて感心し、従っていた人々に言われた。『はっきり言っておく。イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない。』マタイによる福音書 8章5節-13節
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今日の箇所の中心は、イエス様の奇跡的な癒しの業ではなくて、イエス様が感心なさったほどの百人隊長の信仰です。ではイエス様は、この百人隊長の信仰のどのような点に感心なさったのでしょうか。
この百人隊長の信仰で、まず第一に教えられることは、「人のために執り成して願う」という信仰の姿勢です。そもそも「執り成しをする』というのは、その人に代わってお願いする、ということです。この百人隊長は、自分の僕(しもべ)に代わって、イエス様にお願いしたのでした。「主よ、わたしの僕(しもべ)が中風で家に寝込んで、ひどく苦しんでいます」(6節)と。この「僕(しもべ)」というのは、「召使い」、あるいは「奴隷」のことを言い表しています。当時のローマの考え方では、奴隷は生きた道具と見なされていました。この百人隊長は、自分の愛する家族のために執り成しをしたのではなくて、自分の奴隷のために執り成しをしたのです。執り成しをするというのは、その根底には愛がある、ということでしょう。この百人隊長は、この奴隷のことを心から愛していたのです。ですから病気になったらお払い箱だ、とは当然思わなかった。むしろ、その奴隷のために、必死になって執り成しをしたのです。イエス様が感心なさった信仰とは、そういう信仰でした。
百人隊長の信仰の特徴の第二の点は、彼の「へりくだり」でした。イエス様がこの百人隊長の願いを聞いて、僕(しもべ)を癒すために家に行こうとすると、この百人隊長は、「私は、到底、イエス様をお迎えできるような者ではありません!」と告白したのでした。何故、彼はそのように素直にへりくだることが出来たのでしょうか。ルカによる福音書にも、同じ物語が記されています。そして、その平衡箇所を見ると、この百人隊長が、ユダヤ人のためにお金を出して、ユダヤ教の会堂を建ててくれた人であったことが分かります(ルカ7:4-5)。当時、異邦人の中にも、聖書の神様に心惹かれて、ユダヤ教の会堂にやってくる人たちが、数は少ないですが、実際にいたそうです。この百人隊長も、きっとそういう人だったのでしょう。彼は聖書の御言葉に触れて、自らの罪をはっきりと自覚していたのです。イエス様に来ていただくには、あまりにも自分は聖書通りに生きていない。自分の罪を正直に見つめながら、「こんな自分の家に、あなたを迎え入れる資格などありません」と、彼は告白せざるを得なかったのです。しかしイエス様は、この人の信仰を見て、とても感心なさいました。何故でしょうか。それは、この聖書が教える、へりくだりの姿勢を、ユダヤ人の中には見い出すことができず、むしろ異邦人である百人隊長の中に見出すことが出来たからです。
百人隊長の信仰の特徴の第三の点は、イエス様の権威に対する深い信頼です。彼は、イエス様に対してこう願いました。8節後半。「ただ、ひと言おっしゃってください。そうすれば、わたしの僕はいやされます。わたしも権威の下にある者ですが、わたしの下には兵隊がおり、一人に『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば来ます。また、部下に『これをしろ』と言えば、そのとおりにします。」
この百人隊長は、長い軍隊生活の中で、権威がどのようなものであるかをよく知っていました。権威が隅々まで浸透しているところでは、上に立つ者の意志通りに下の者が動きます。これが権威なのです。そして、この百人隊長は、それと同じ関係が、イエス様と病気との間にもあることを信じていたのです。イエス様が一言命じたならば、それで病気は退散してしまう。人間の悩みや悲しみに対して、イエス様は圧倒的な力をもって命じることが出来る。圧倒的な力をもって私たちを悩みから救い出して下さるのだ、と彼はイエス様のことを信じていたのです。
私たちは、イエス様のこういう力を果たして信じているでしょうか。毎日の生活の中で、私たちは様々な悩みや苦しみに直面し、途方に暮れることがあります。私たちは、キリストの権威を聖書から教えられていますが、現実の生活の中では、そのことがどうしても信じられないことを、しばしば経験するのではないかと思います。しかし、私たちがどう受けとめようが、実際にイエス様は、この力をもっておられます。私たちは今も様々な悩みを背負い、悲しみを味わいます。しかしイエス様が命じられたならば、たった一言で、その一つ一つをたちどころに解決することが出来る。イエス様の権威の外で、私たちに襲いかかる悩みや悲しみなど一つもないのです。イエス様は、そういう全ての事柄を既に支配しておられます。その悩みの一つ一つに向かって、「行け」と言えば、それらは、たちどころに去っていくのです。しかも、このお方が私たちのことを愛して愛して止まない、ついには私たちの罪を贖うために十字架の上で死んで下さったのでした。このことを私たちがしっかりと心に刻むことが出来たならば、私たちは自分に与えられた様々な悩みや悲しみについて、もっと別の見方が出来るのではないかと思います。それは、イエス様の大きな御力の支配のもとにある悩みや悲しみてす。必ず「万事が益となる」悩みや悲しみです。
この百人隊長の信仰は、イエス様が山上の説教の中で教えられていた信仰者の理想の姿そのものです。「貧しい者、悲しんでいる者、飢え乾いている者は幸いである」とイエス様は教えられました。自分の欠けや弱さや罪を知って、心底、打ち砕かれ、涙しながら、「貧しい自分にはどうしてもイエス様の助けが必要です!」とただひたすらにイエス様にすがりついていく、そういうあなたが幸いなのだ、とイエス様は語りかけて下さったのです。また、人を裁くのではなくて、敵をも愛するように、とイエス様は教えられました。そういう信仰者の姿が、イスラエルではなくて、ユダヤ人が忌み嫌っていた異邦人の百人隊長の中にあった、これが今日の物語なのです。
信仰の道は、本来、シンプルです。必要とされているのは神の言葉への信頼です。全てを支配しておられる神様が、独り子の命を犠牲にするほどまでに、この私を愛し抜いて下さいました。そして、その凄まじいまでの愛をもって、「私のもとに来なさい。あなたを休ませてあげよう」と招いて下さいます。そうであるならば、何をためらう必要があるでしょうか。素直になって、その招きに応えればよいのです。ただそれだけのことです。