日曜朝の礼拝「わたしは願う、清くなれ」

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わたしは願う、清くなれ

日付
説教
吉田謙 牧師
1 イエスが山を下りられると、大勢の群衆が従った。2 すると、一人の重い皮膚病を患っている人がイエスに近寄り、ひれ伏して、『主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります』と言った。
3 イエスが手を差し伸べてその人に触れ、『よろしい。清くなれ』と言われると、たちまち、重い皮膚病は清くなった。
マタイによる福音書 8章1節-4節

今日の物語は、山上の説教を終えて山から下りてこられたイエス様のもとに、一人の重い皮膚病患者が大胆に近寄り、ひれ伏して、「どうか私を清めて下さい」と懇願した、という物語です。

 当時、この重い皮膚病にかかっていた人々は、宗教的に汚れていて、神様から見捨てられた存在である、と考えられていました。彼らは社会的に排除され、人々からは隔離され、町の外でひっそりと暮すしか術がなかったのです。勿論、家族とも思うように会うことが出来ません。彼らは一目見て汚れた者と分かるように、わざと衣服を裂き、髪をほどいて、通りを歩く時には、『わたしは汚れた者です。汚れた者です』と大声で叫ばなければならない、と律法では定められていたのでした。

 当時のユダヤ教の文献には、こういうことが書き記されているそうです。ある律法学者は、重い皮膚病患者の姿が少しでも見えた市場では、卵さえ買わなかった、と言って自慢した、と言います。またあるユダヤ教の教師は、多くの人が重い皮膚病患者を見て逃げ出していく中、自分だけは勇敢にも石を投げてその汚れた者を追い払ってやった、と誇らしげに語ったそうです。このように重い皮膚病と判定された者たちは、とんでもない偏見によってユダヤ教からは破門され、社会生活からは隔離され、まるで人間として存在価値がないかのような扱いを受けていたのです。このように重い皮膚病と判定された者たちは、とんでもない偏見によってユダヤ教からは破門され、社会生活からは隔離され、まるで人間として存在価値がないかのような扱いを受けていたのです。

 今日の箇所に登場するこの重い皮膚病患者は、こういう様々な悲惨からの救いを願い、イエス様のもとにやって来たのです。彼は、イエス様のもとにひれ伏して、「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と言いました。これは「私を癒して下さい」という、ただ単なる願いの言葉ではありません。そうではなくて、「あなたは私を清くすることができるお方です。あなたはそういう力を持っておられます!」という確信、信頼の言葉です。つまり、彼はこの時、自らの信仰を告白したのでした。しかも彼は、ここで「御心ならば」という言い方をしています。これは直訳すると「もしあなたがそのように願って下さるなら」という言葉です。「力を持った主が願って下さるなら、その力が発揮されて私は清くされるに違いない。全てはあなたのご意志、あなたの御心にかかっています!」彼はこういう信仰をここで告白しているのです。ここに、この人の一つの明確な、しかも正しい信仰の姿勢が現れています。

 この彼の信仰告白に応えて、イエス様は、「よろしい。清くなれ」と言われました。この「よろしい」という言葉は、直訳すると「私は願う」、「私は意志する」となります。つまりイエス様は、彼の「御心なら」、「もしあなたがそのように願って下さるなら」という言葉に応えて、「私はそのように願う」、「おまえが清くなることが私の願いだ!」と言って下さったのです。このイエス様のご意志、御心によってこの癒しが起ったのでした。

 今日のこの物語は、山上の説教のすぐ後に記されています。私たちは、この山上の説教を、約一年をかけて、ようやく読み終えることが出来ました。皆様は、この山上の説教を読み終えて、どのような印象を抱かれたでしょうか。この山上の説教は、神様と人を愛する生き方、心の奥底から純粋で清らかな人間像を描いていたと思います。このようなイエス様が求められる信仰者のあるべき姿と実際の私たちの姿を比べる時に、私たちは自分がいかに汚れた存在であるかを痛感させられたのではないかと思います。そして、今日の物語は、そういうことを痛感した人が、まず読むべき物語として記されているのです。イエス様は、そういう汚れた者を嫌がらず、むしろ自ら進んで近づき、触れて下さるお方でした。しかし、触れることによって、ご自分も汚れて、同じ惨めさの中に沈み込んでしまうのではなくて、私たちに触れながらも、ご自分の方は決して汚れることのないお方です。「私は願う。清くなれ」と願いながら、実際に私たちを清くして下さるお方なのです。山上の説教は、大変に高い倫理が教えられていました。しかし、これを教えて下さったのは、厳しい道徳の先生ではありません。汚れた者にさえ、手を伸ばし、「私は願う。清くなれ」と言って下さるお方が、この山上の説教を教えて下さったのです。それがどんなに高く、清らかな教えであったとしても、また、その教えと比べたならば、「自分は本当に汚れている」と痛感せざるを得ない者たちであったとしても、大丈夫なのです。イエス様はそういう汚れた私たちに、いつも手をのばし、しっかりと結びつきながら、私たちが清くなることを願い続けて下さいます。イエス様が「お前を赦す。清くなれ」と言われた以上、これは必ず実現することなのです。

 しかし、私たち自身の生活を振り返る時に、このことはなかなか信じがたいことではないか、とも思います。何度決心しても、すぐにまた同じ失敗を繰り返してしまう、本当に懲りない私たちです。そういう自分自身の汚れた姿を目の当たりにする時に、私たちは落胆してしまうのです。こんな自分が本当に清められるのだろうか、と。けれども、これは私たち自身の力、私たち自身の頑張りによるのではありません。イエス様が全部して下さいます。私たちが十字架と復活のイエス・キリストとしっかりと結びつき、共に歩んでいくならば、私たちも必ず少しずつ造り変えられていくはずです。

 一、二年前の自分と比べても、そんなに変わりばえはしないのかもしれません。けれども十年、二十年前の自分と比べてみるならば、やはり私たちも随分と造り変えられているのではないかと思います。神様の御心は、私たちを清くすることです。神様の具体的なご計画は私たちには分かりません。けれども、神様が私たちを掛け替えのない大切な存在として愛し、私たちが清くなることを切に望んでおられることだけは確かです。この神様の御心に信頼し、汚れた私たちがただ赦されるだけではなくて、必ずや全き清さの極みにまで高めて下さる。そのことを信じ、決してうな垂れることなく、希望をもって、それぞれの戦いを戦い抜いていきたいと思います。

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