人生の土台
- 日付
- 説教
- 吉田謙 牧師
24「そこで、わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。
25 雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった。岩を土台としていたからである。26 わたしのこれらの言葉を聞くだけで行わない者は皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている。
27 雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家に襲いかかると、倒れて、その倒れ方がひどかった。」
マタイによる福音書 7章24節-29節
千里摂理教会の日曜礼拝は10時30分から始まります。この礼拝は誰でも参加できます。クリスチャンでなくとも構いません。不安な方は一度教会にお問い合わせください。
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この譬え話は、私たちに、それぞれの人生の土台について、考えさせるような譬え話になっています。私たちの人生の土台がどこに据えられているのか、これは、普段、何もない時にはベールで覆われていて、他の人には見ることが出来ません。普段、何もない時には、みんな真面目な学生であったり、善良な市民であったり、勤勉な会社員であったりするのです。けれども、人生の大きな嵐がやってきた時に、それまでベールで覆われていた私たちの人生の土台が露わにされ、その土台の違いが明確に現れてくるのです。
イエス様は、この山上の説教の一番最後の結びの部分で、どんな試練にも揺らぐことのない人生の土台を据えるように、と教えられました。では、どんな試練にも揺り動かされない人生の土台とは、いったい何なのでしょうか。24節のところでイエス様は、「そこで、わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆」と言われました。また26節のところでも、「わたしのこれらの言葉を聞くだけで行わない者は皆」と言われています。まず御言葉を聞くことが土台なのです。教会に来て、神様からの語りかけを聞くことがまず大前提でありましょう。けれども、今日の箇所には、ただそれだけでは駄目なのだ、と言われているのです。当時の人々は、イエス様からの名説教を聞きました。みんな同じように自分の場所に腰をおろし、イエス様の素晴らしい説教を聞いたのです。しかし、聞くところまでは一緒でも、そこから二つに分かれていったのでした。「これらの言葉を聞いて行う者は皆」とイエス様は言われました。神様の教えをただ聞くだけではなくて、それを日毎の生活の中で実践しているかどうかが、人生の土台を築く上で決め手になるのだ、と言われているのです。
ここで「わたしのこれらの言葉」と言われているのは、勿論、山上の説教を指し示しています。それでは、この「山上の説教」とは、どのような教えだったでしょうか。
ここで私たちは、これまで「山上の説教」をどのように読んできたのかを、もう一度、振り返って見る必要があります。例えば、「敵を愛しなさい」という教えは、自分を磨きあげ、心を清めていくことによって、敵をも愛することができ、自分を憎む者にも親切にし、悪口を言ったり侮辱する人のためにも祝福を祈ることができる、そういう寛容な、愛に溢れる人間になりなさい、という教えだったでしょうか。決してそうではありません。5章45節のところには、「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである」と言われていました。神様は、愛と寛容に満ち溢れた立派な人のみを愛し、神の子として下さるのではありません。むしろ正しくない者に対しても情け深く、そういう者たちをご自分の子として迎え入れて下さるのです。ここで言う「正しくない者」とは、将に私たちのことではないかと思います。私たちは、神様によって愛され、生かされ、様々な賜物が与えられて、それぞれの人生を歩んでいるのです。それなのに、その神様に感謝することが少なく、全て自分の力で得たものであるかのように錯覚し、好き勝手に生きているのです。その恩知らずの私たちに対して、神様はあくまでも情け深く、憐れみ深く、私たちのために独り子イエス・キリストを救い主として遣わして下さいました。そして、その独り子イエス様は、神様に敵対する私たちを愛し、私たちの罪を全部背負って十字架の上で死んで下さったのです。つまりイエス様は、ただ「敵を愛しなさい」という教えを語られただけではなくて、将に私たちのために、そのことを自ら実践して下さったのでした。「この神様の愛を味わいながら、あなた方も神様の子供として相応しく歩みなさい。神様が憐れみ深いように、あなた方も憐れみ深い者となりなさい!」と主は私たちを促して下さるのです。勿論、すぐに出来るわけではありません。このイエス様の高い教えを実践しようとする時に、私たちはすぐに挫けてしまうのです。ところが、私たちは、そこで簡単に諦めてしまうのかと言うと、決してそうではないと思います。何故でしょうか。それはイエス・キリストの十字架の恵みがあるからです。
まずは、イエス様の御言葉を聞くだけではなくて、実際にやってみるのです。この教えを守らなければ救われないと受けとめ、嫌々するのではなくて、こんな罪深い私でもイエス様は救って下さった、この驚くべき恵みに対する応答として、喜んでこの教えを実践していくのです。勿論、完璧に出来るわけではありません。それは失敗の連続でありましょう。それでも、イエス様の十字架によって赦していただきながら、悔い改めては立ち返り、悔い改めては立ち返る、そうやって信仰と悔い改めの生活を繰り返していくのです。そういう中で、私たちは少しずつ造りかえられていくのではないでしょうか。要するに、「わたしのこれらの言葉を聞いて行う」というのは、イエス・キリストの十字架の恵みのもとで、信仰と悔い改めの生活を日々の生活の中で実践していく、ということなのです。
この山上の説教には、「あなたがたの天の父」という言葉が繰り返し語られていました。本来、神様のことを、父と呼ぶことが出来るのは、独り子である神、イエス・キリストお一人だけです。けれどもイエス・キリストは、この山上の説教の中で、ご自分の父である神様のことを、「あなたがたの天の父」と呼んで下さったのでした。
親は子供が悪いことをすると叱ります。しかし、本当は悪いままでも可愛くて可愛くて仕方がないのです。それが本来の親でありましょう。神様も同じです。私たちがどんなにへまばかり繰り返していても、能力がなくても、魅力が乏しくても、そういう私たちをあるがままで受け入れ、喜んで下さいます。神様はそういう私たちの父になって下さったのでした。これはよくよく考えてみると、奇跡的なことではないかと思います。造られた者に過ぎない私たちが、しかも、これまでさんざん神様に敵対し、神様に背を向け続けてきた私たちが、御子イエス・キリストのゆえに、神様のことを親しく「父よ」と呼びかけることが出来る。これは将に「アメイジンググレイス!」「驚くべき恵み」ではないかと思います。
この天の父である神様の愛に目が開かれ、この神様の愛を自らの人生の土台に据えることが出来たなら、私たちはたとえどんな苦難に遭遇しようとも大丈夫です。きっと神様の愛に支えられながら、どんな苦難をも乗り越えることが出来るでしょう。