日曜朝の礼拝「信仰の実」

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信仰の実

日付
説教
吉田謙 牧師
16 あなたがたは、その実で彼らを見分ける。茨からぶどうが、あざみからいちじくが採れるだろうか。
17すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。18 良い木が悪い実を結ぶことはなく、また、悪い木が良い実を結ぶこともできない。
マタイによる福音書 7章15節-23節

 良い実をならせる木は良い木であり、悪い実をならせる木は悪い木である。だから、偽預言者であるかどうかは、その実の善し悪しで判断できる、と主は教えられたのでした。では、ここで言う「実」とはいったい何でしょうか。多くの注解者は、「これは良い生活のことである」と説明しました。偽預言者であるかどうかは、生活が結ぶ実りで判断できる、と言うのです。しかし、ここで言う「良い生活」というのは、ただの「立派な生活」というわけではありません。私たちは、この御言葉が、山上の説教の結びで語られていることを覚える必要があるでしょう。

 私たちは、これまで、この「山上の説教」を通して、世間一般で考えられているような「良い生活」とは随分と違う、「山上の説教」特有の「良い生活」について、多くを教えられてきました。私たちは、ここで教えられた「良い生活」と照らし合わせながら、この偽預言者を見分けなければなりません。

 山上の説教の最初でイエス様は、「心の貧しい人々は、幸いである」、「悲しむ人々は、幸いである」(マタイ5:3-4)と教えられました。山上の説教が教える「良い生活」とは、人から後ろ指を指されないような立派な生活をする、ということではありませんでした。そうではなくて、むしろいつも自分の魂の貧しさを知り、自分が罪深く、誘惑に弱く、愛に欠けている人間であることを自覚し、悲しんでいるのです。これがキリスト教的良い生活の中身でした。あるいは、イエス様は私たちに、「主の祈り」の中でこう教えられました。「わたしたちの負い目を赦してください。わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように。」(マタイ6:12)。良い生活というのは、立派な生活をすることではなくて、人のことを赦しながら、自分も赦されることを願う生活です。あるいは、イエス様は、「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい」(マタイ6:1)と言われました。イエス様は、「人から見て立派に思えるような生活をしなさい」とは言われなかったのです。むしろ、そういうことが現れないように生活しなさい、と言われたのでした。人の前で正しい行いをするよりも、神様の前で真実に生きること、これが山上の説教が教えている「良い生活」の中身でした。結局、山上の説教が教える「良い生活」とは、イエス様の十字架によって罪赦されながら、その罪赦された恵みの中で打ち砕かれ、へりくだって生きる、という生き方を言うのだと思います。これを一言で言うならば、「キリストの十字架に目を注ぎながら生きる」ということでありましょう。イエス様の十字架によって罪赦されていることが、私たちの生活の土台になっているのです。

 パウロは、パウロの時代に活躍した偽預言者について、このように語っています。「何度も言ってきたし、今また涙ながらに言いますが、キリストの十字架に敵対して歩んでいる者が多いのです。」フィリピの信徒への手紙3章18節の御言葉です。偽預言者というのは、パウロから言うならば、キリストの十字架に敵対して歩んでいる者たちなのです。

 私たちは、神様の御心を語る点で、様々な間違いをします。グループで集まって聖書を学び、語り合う時にも、私たちはしばしば間違うことがあります。多くの説教集を出版されている立派な牧師であっても、若い頃に語った説教と最近の説教とを比べると、主張点が随分と違っていることがあります。これは誰にでも起こり得ることなのです。私は、説教づくりをする際に、以前語った説教を参考にすることがあります。まだ数年前の説教なら、比較的、参考になりますが、十年、二十年前の説教になると、もうほとんど使いものになりません。「よくこんな説教を語っていたなぁ」とガッカリすることもあります。本当にぎこちない説教です。正確な釈義が出来ていません。主張点もずれています。けれども、あの時、私は偽預言者だったのかと言うと、決して、そうではなかったと思います。確かに正確な釈義が出来ていなかったのかもしれません。主張点もずれていたのかもしれない。けれども、イエス・キリストの十字架に土台を置きながら、罪赦された喜びを一所懸命に語っていました。罪赦された喜び、感動を語るということだけで言うならば、当時の方が今よりも、もっと生き生きと語れていたのかもしれません。そういう意味では、整っていない、ぎこちない説教でしたが、それでも当時私は、真の預言者として語っていたのだと思います。

 このように、キリストの十字架が私たちの生活に根付いているならば、小さな間違いは犯すかも知れませんが、それでも私たちは、それぞれに神様の御心を語る真の預言者として用いられるのです。しかし逆に、心が貧しくないとか、罪の赦しの必要性が感じられないとか、キリストの十字架が生活の土台となっていないというように、魂の姿勢の一番肝心なところが間違っているならば、その人は、どんなに神学的な知識が豊富であっても、どんなに伝道熱心であっても、どんなに人の心を打つ言葉を語ることが出来たとしても駄目なのです。残念ながら、その人は偽預言者である、と言わなければなりません。根本的に、その生き方を考え直さなければならないのです。

 人に見てもらうために、とってつけたような立派な生活をしても、山上の説教が言うような、心を砕く「良い生活」は出来ません。十字架によって私という人間が、本当に深いところから変えられなければならない。そして、変えられた後も、その救いに決してあぐらをかくのではなくて、常に新鮮な思いで、主の十字架の恵みのもとに立ち続けなければならないのです。なお罪に打ち勝つことの出来ない弱い人間として、神様を愛する力の弱い人間として、隣人を愛する力の少ない人間として、心の貧しさを覚えつつ、魂の飢え渇きを覚えながら、日々、私たちはイエス様の助けを切実に慕い求めなければなりません。けれども、そうやって、心打ち砕かれながら、日々、魂の奥深くにイエス・キリストを迎え入れる時に、こんなに弱く、罪深く、しばしば間違いを犯してしまう私たちであっても、「あなたは、良い実を実らせる、れっきとした真の預言者なのだ!」と主はきっと優しく励まして下さるでしょう。何という幸いでしょうか。

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