日曜朝の礼拝「狭い門から入りなさい」

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狭い門から入りなさい

日付
説教
吉田謙 牧師
3 狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。
14 しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない。
マタイによる福音書 7章13節-14節

 今日の箇所から7章の最後までが、この山上の説教の結びの部分になっています。今日の狭い門の教えは、これまで学んできた山上の説教の教えは、とても厳しい教えであるけれど、ここにこそ命の道があるから、あなた方はこの道を選び取るように、という勧めになっています。

 この「狭い門」とは、一つには、「多くの人が入ろうとしない門」という意味です。多くの人々はこちらの門を選ばない、とイエス様は言われました。人の顔色をうかがい、世間に調子をあわせて生きているならば、この門を選ぶことは出来ません。人に調子をあわせて生きるのではなくて、神様のご意志、神様の御心を選び取る。これが「狭い門」の重要なポイントではないかと思います。

 また、この「狭い」というのは、ただ人数から言って、こちらから入る人が少ないというだけではなくて、「歩きにくさ」を言い表す言葉でもあります。信仰の道は、決して歩きやすい道ではなくて、辛く、厳しい道なのだ、と主は言われます。しかし、「この道こそが命の道なのだから、あなた方はこの命の道を選び取りなさい!」と主は言われるのです。

 「御言葉に従い、立派に生きてみせます!」、「神様、今日、私は立派に生きることが出来ました!」私たちは、こういう生き方が出来ません。反対に、「私は御言葉に従うことが出来ないので、もう諦めて、今日からは、のんびりと生きることにします。」こういう生き方も出来ない。ここにクリスチャン特有の狭い道があるのだと思います。神様の前で徹底的に打ち砕かれ、罪を悔い改め続ける道です。「もう私の力では神様に仕えることも、従うことも出来ません。どうか、お赦しください。そして、もう一度、私をあなたの御言葉に従って生きることが出来るように、あなたご自身が私を促して下さい!」私たちは、こういう祈りの中を生きなければならないのです。狭い門、狭い道とは、結局、そういう道ではないかと思います。「一所懸命頑張ったら出来ます」というのは、本当は楽な道なのです。「やらなくてもいい」というのは、もっともっと楽でありましょう。一所懸命やっても出来ない。しかし、それで諦めるのではなくて、いつも心打ち砕かれ、赦しを請い求めながら、なお立ち向かい続けるのです。これはまどろっこしい道であり、狭い道ではないかと思います。結局、この狭い道は、「悔い改めの人生」と言い換えることも出来るでしょう。

 改革派教会が教える悔い改めについての教えは、悔い改めとは第一に、自分の罪を認めることです。そして第二に、この罪人の私を赦し、愛して下さる神様の恵みに促されて、罪から神に立ち帰り、新しい決心をすることです。「狭い戸口から入れ」というのは、結局、そういう「悔い改めに生きよ!」ということではないでしょうか。クリスチャンは、他の人が知らない、この辛さと苦しさを、どうしても味わわなければなりません。他の人と同じように、呑気に自分について自信をもつわけにはいかないのです。また他の人と同じように、呑気に自分の生活をそのまま肯定するわけにもいかない。罪赦され、受け入れられていることを知りながらも、なお、心打ち砕かれ、自分の罪にうめいていなければならないのです。しかし、ただそうやって落ち込むだけではなくて、そういう私を赦して下さるお方のもとで、いつも励まされながら、力をいただくことが出来るのです。「狭い道」とは、そういうクリスチャン独特の「悲しみ」と「うめき」を味わうのと同時に、またクリスチャン独特の「喜び」と「感動」をも味わうことが出来る道ではないかと私は思います。

 私は、今日の御言葉を思い巡らす中で、イエス様が語られた有名な御言葉を思い起こしました。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛(くびき)を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛(くびき)は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」(マタイによる福音書11章28節-30節)。

 私たちがイエス様に従うためには、やはり負わなければならない軛(くびき)がある、通らなければならない狭い門、狭い道がある、と言うのです。しかし、イエス様は「私の軛(くびき)は負いやすく、わたしの荷は軽い」とも言われました。この山上の説教を読んで、私たちが思い知らされることは、その水準の高さです。イエス様は本当に高い水準のことを求められます。やはり狭い門であり、狭い道なのです。では、何故、イエス様は、「私の軛(くびき)は負いやすく、わたしの荷は軽い」と言われたのでしょうか。

 そもそも軛(くびき)というのは、農作業や車を引くための二頭の牛などを結びつける横木のようなものです。イエス様がここで「わたしの軛(くびき)」と言われる時に、これはイエス様が、私たちと一つの軛(くびき)でしっかりと結び付けられている、ということを意味しています。ちょうど牛や馬が横木でつながれて、黙々と荷物を引いたり、畑を耕したりするように、イエス様は私たちと運命を共有し、「共に」歩んで下さるのです。「わたしの軛(くびき)は負いやすく、わたしの荷は軽い」と言われているのは、イエス様がその大部分を背負っていて下さるからでしょう。イエス様が「このように生きなさい」と言われる時に、私たちが重苦しく感じるのは、自分の力でやり遂げようとするからです。しかし、本当はそんな肩肘張る必要はありません。私たちは、イエス様と一つの軛(くびき)でしっかりと結びあわされています。私たちは、イエス様に重荷を背負っていただき、イエス様に励まされながら、イエス様と共に歩むのです。イエス様が一緒に歩んで下さるのですから、この狭い門から入り、狭い道を歩む生き方も、軛(くびき)(くびき)は負いやすく、きっと私たちにも歩み通すことが出来るはずです。

 「狭い門から入りなさい!」、「狭い道を歩みなさい!」、私たちは、努力も戦いもないような平安と喜びに招かれているのではありません。主と軛(くびき)を共にしながら、共に戦い、共に苦しむ辛さの中で、主の恵みを味わうことが出来る、そういう喜びと平安に招かれているのです。

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